金井岩雄氏証言
昭和24年7月5日午後6時半過ぎ、五反野の轢断現場近くで下山氏によく似た紳士が、かがんで草をいじっているのが目撃されています。この目撃証言は、後に下山氏の衣服のポケットの中からカラス麦が発見された事実と整合しており、五反野を徘徊していた紳士が下山氏本人であった可能性を示唆するものでした。衣服のポケットを注意深く調べ、重要な証拠となるカラス麦を発見したのが、当時警視庁捜査一課の刑事だった金井岩雄氏です。金井氏は長年刑事として第一線でご活躍され、下山事件のみならず数々の重大事件の捜査に従事してきました。多くの書籍や新聞・雑誌記事等でその幅広いご活躍ぶりを知ることができます。本サイト管理人は、下山事件に関する金井氏の貴重な経験を拝聴する機会を、幸運にも得ることができました。金井氏に承諾をいただき、以下にその内容を文字起こししたものを公開します。金井岩雄氏のご厚意に心より感謝いたします。
金井氏 一番最初の会議はね、大体(捜査員の判断は)他殺が8割、自殺が2割位だった。私も他殺でいきました。ところが捜査をやっているうちにね、目撃者の関係で。それで、あのときには末広旅館ていう旅館があった。現場の近くにね、五反野に。そこのご主人が、私が警察官になったときに配置になった麻布の鳥居坂って(ところにいたことがある)、今じゃありませんよ、今は麻布警察になってます。その当時は鳥居坂、昔の麻布区ね、鳥居坂警察と六本木警察とあった。鳥居坂のほうが広かった。麻布十番とかね、繁華街を担当してた。今でこそ六本木は有名だけれども、その当時は六本木はね、軍隊と、あとお墓、お寺ばかりあった。ところが昭和20年のあの大空襲でやられて、それでお墓も移る。それで警察もまた今度は港区になりましてね、区がね。赤坂区、麻布区、芝区と三つあったのが港区になりました。だから、その当時の警察というのは、芝区には三つあった。愛宕警察、三田警察、高輪警察と。今でもありますよ。それで、麻布には、今言ったように、鳥居坂と六本木とあって、これが一緒になって、六本木が今度麻布警察になった。全部我々はそこに異動した。赤坂のほうは、表町とそれから青山って警察がありましてね、この二つが一緒になって、表町が赤坂警察になったんです。私が捜査一課に行ったのが昭和23年ですからね。それで昭和24年が、7月5日が下山事件。これは下山さんが、最初の国鉄の総裁だからね。住まいは大田区だったですね。最初の会議のときには、私は他殺、有名な平塚八兵衛も「まあ半々だなあ」なんてね。で、違う刑事は2、3人、これは自殺だと。ところが捜査をやっているうちに段々段々、目撃者の関係で、自殺ということなんだけれどもね。やっているうちに、どんどん目撃者が出てきてね、今でこそ常磐線が上になってるけど、昔は下だった。東武のが上だったの。それで下山さんがあそこに座って、ちょうどカラス麦ができる頃でね。カラス麦っていう麦があるんですよ。野生のやつで。それを(下山氏が)とっているのを見ている人がいるんですよ。それが、歩きながら見てる人とね、前を通って見てる人と、電車の中で見ている人がいるんですよ、東武鉄道。その頃、夜ね、夜ですよ、一番最後の電車なんですよ、時間は忘れたけどね、まあ12時過ぎてからですね。その電車が通るときに、(下山さんが座っていたところに刑事が座って)違う刑事が電車に乗ってみたら、見えるんですね。電気の光でこうなってるから、上の電気で、そこがはっきり見えてた、ということですねえ。だから一番最初、他殺でいったんです。ところがやっているうちに自殺にね。
――警視庁は最終的に自殺の結論を公表しなかったわけですが、それはGHQや日本政府からの圧力があったからだという説があるんですけれども。
金井氏 うん、事実あったかもわかりませんねえ。我々一番下の刑事にはよく分からないけれども、自殺の結論を固めてから、だいたい自殺の報告をすると、上の人が「他殺の線はないのか」とよく言ったからね。
――上の人といいますと、捜査一課長ですとか、刑事部長とかでしょうか。
金井氏 そう、あのときには、(捜査一課長は)堀崎繁喜さんという長野県の人だったですよ。背は大きくなかったけど、太ってましてね、堀崎繁喜さん。その当時の刑事は、今私しかいないですよもう。その当時の刑事さんてのは、(生まれが)みんな明治42年とか、43年とか、平塚八っちゃんが大正2年だからね。で、私が大正9年だから、もう来年の1月になると91歳になっちゃうんだからね。なにしろもう、私が24歳のときだから。まだ独身のときだからねえ。自殺の発表ができなかったときは悔しかったですねえ。理由は我々捜査員には分からないですよ。GHQですか、そこから圧力があったんではないかとは思うんだけれどもね。あったという話ですけれども。
――警視庁幹部には圧力があったかもしれない、しかし、捜査員には詳しい説明はなかったということですね。
金井氏 あのときにねえ、官房長官が緒方竹虎。
――増田甲子七さんではありませんか。
金井氏 我々が行ったのは緒方竹虎さんだったね。九州の人だった。緒方竹虎という代議士がいました。30分位待って会ったのはたったの3分位だったからねえ。
――そういう国のお偉いさんたちは、他殺の線でいってくれという感じの…。
金井氏 そうですねえ、そうかもしれませんねえ。ちょうど23年の3月7日から国家警察から、公安委員会というのができて、今の23区ね、それだけが警視庁ということになったんですよ。(下山事件は)それ以降の事件だからね、だから中央に出張で行ってもね、同じ警察がふたつあったんだ、警察が。1階が国家警察、2階が自治体警察で、そういう面白い…、今はそんなことありませんけど、昔はね。
――金井さんが下山総裁の遺品の服のポケットの中からカラス麦を見つけたということですね。服を洗って干しておいてくれと言われたそうですが。
金井氏 そう。
――まず洗ったわけですね、水で。
金井氏 今だったら鑑識課に先にやるわけなんだけれども、あの当時はなにしろ、鑑識にも写真を撮るフィルムがあんまり無い時代だからね、あの当時はね。だから本当は持ってきたものを鑑識に全部やって、血がついてベットリのやつをね、それを洗ったけど。で、そのときに、ポケットの中からカラス麦が出てきたんです。で、カラス麦ってのは、私の実家は群馬県の農家だから、すぐ分かるんですよ。ああ、これはカラス麦だな、と。
――衣服には血がついていたんですね。
金井氏 そう。非常にこう…肉が付いていましたねえ。血もね。
――後に法医学の人が、服には全然血が付いてなかったと言っているんですけれども、ではそれは間違いだと。
金井氏 血が付いていないのは当然です、洗ったんだから。
――しかし洗う前は付いていたんですね。
金井氏 そうです。いやあ、もうすごいですよ。
――それから、服に非常に大量の、絞れば滴るほどの油が付いていたという話がありますけど、そこまでは付いていなかったんじゃないですか。
金井氏 そんなに付いてないですね、油はね。
――もちろん轢断されたときに、ある程度列車のものが付いたとは思うんですけれども。
金井氏 ああ、そりゃ付いたかも分かりませんけれどもね。ボタボタ落ちるようなそんなことはない。ただ雨が降ったからね、それで多少は肉とか、油も落ちたかもしれません。雨が降ったからね。それで、今でこそ現場は公園になってますけどね、あの前のところね、今は河川になって、碑が河川の下にね、下山さんの碑がありますけども。あの、ちょうど轢かれた、すぐ傍だよね。なにしろ服は肉切れが多かったです。朝から臭かったのねえ。
――夏ですしね。
金井氏 今みたいに石鹸とか、粉石鹸とか無い時代だからねえ。固形石鹸ていう硬い石鹸だから、洗濯用のね。それでもって擦って落としたんだからね。当時はものが無くてねえ、捜査行くのにもサツマイモふたつもって行ったんだから。昔は服を買うのにも衣料切符ってのが要ってねえ。今じゃとんでもない話だ、100円出せば靴下が買えるんだからねえ。米なんかもとんでもない。私は実家が農家だったから米は不自由しなかったけどね。街の人は本当に困ってた。みんな買出しなんかで捕まってね。
――朝日新聞の諸永裕司さんという記者に、10年以上前、金井さんが79歳のときに取材を受けた記憶はございますか。
金井氏 ああそうだ、ありましたねえ。
――この人が書いた本はご存知ですか。
金井氏 知りません。
――この本のなかには、金井さんのインタビューを元にした記述があるんですね。これがコピーなんですけども。末広旅館の主人のNさんという人について書いてある部分なんですが。この記者さんは朝日新聞てこともありまして、他殺説です。
金井氏 (コピーを読みながら)ああ、佐久間さん、まだ元気かね、あのときの検事は。
――いや、今はどうだか分かりません。この本が出たのは結構前ですから。
金井氏 いつ頃に出たんだい。
――7、8年位前でしょうか。
金井氏 (コピーを読みながら)そうそう、そうですよ、(末広旅館の主人は)特高にいたらしいですねえ。我々のときはいないですよ。関口(由三)さんは知ってた。(平塚)八っちゃんもね。「いやあ、しばらくです」なんてねえ。私は事件になって初めて知りましたけど。特高というのは、要するに昔は私服の普通の捜査官ね、一般の刑事、泥棒捕まえる刑事、これを高等警察といったの。それでまた今度は思想的なものを調べる私服ができたの。それで特別高等警察と。「特別」が付いたから特高と。私服のことをいうんですよ。捜査一課ができたのが昭和4年の7月26日か。訓令甲で、17号か18号だと思うんだけど。それまでは警視庁の捜査課の強力犯係、知能犯係といったの。強力犯係が捜査一課になって、知能犯係が捜査二課になった。
――諸永記者は、旅館の主人が元特高だから、自殺説に都合の良いような目撃証言を仕組んで警察に協力したんじゃないか、ということを示唆してるんですけども。
金井氏 (コピーを読みながら)特高なのは間違いないですよ。あのときには捜査本部というのが、西新井警察署の駐在所でやった。あの近くのね。中川っていったっけなあ、駐在の名前がね。そこが捜査本部ですから。今は公園になってるけど、当時は水田だからね。みんなその、稲があったんだからね、全部。
――末広旅館のご主人の名前の読み方はNKでいいんですか、NSではなくて。
金井氏 そうです。Kといっていましたね。鳥居坂署で関口さんはよく知ってました。関口さんは明治の生まれの人です。関口さんよりか先輩かもしれません、Nさんはね、末広旅館のおやじさんは。なにしろね、下山さんもちょっと頭がおかしくなってたことに間違いない。それはね、あの頃アイスキャンディっていうのができた頃なの、アイスキャンディ。夏だからね。それが(国鉄での)会議のときに出たんだよ。それを下山さんは珍しいから、みんなに持っていってやろうってわけで、それをポケットの中に入れたんだ。周りの人たちが、「いやあ、総裁、そこに入れちゃまずいですよ」と。やっぱり袋かなんかに入れないと。あの頃ビニールあったか分かりませんけどね。そういうことがありましたけどね。いやあ、しかしこんな本があったのかね、私知らなかった全然。取材されたことは知ってますよ。なんて人だったかねえ?
――諸永さんという人です。
金井氏 ほう、まだ(記者を)やってるの。
――はい。旅館の主人が元特高なのは、別に諸永記者の取材で初めて明らかになったことではないのに、それを「新情報」と書いて、あたかも隠蔽されていたかのような印象を与えるのは、どうかなあと思うんですが、いかがでしょうか。
金井氏 そりゃ他殺だっていう人はいるでしょう。ただ、脇からなんと言われようとも、捜査に従事した人はだいたいもう自殺です。誰がなんと言ってもね。あのとき実際に捜査してれば一番よく分かる、なんといってもね。他殺だっていう人はいますよ、新潮社の人も来てね、なんだかその、他殺だとか言ってましたけど。ただ、そのときの捜査員に聞けばみんな自殺と言います。もう状況からして。あれだけの目撃者がいちゃあ、もう。まあ、他殺であろうが自殺であろうが、書くのは自由だから。言論の自由だからね。私の言ったことをどう書いても、言論の自由だからいいんですよ。
――気にしないと。
金井氏 当時捜査した人に言わせれば、他殺の人はいませんね。みんな自殺になっちゃう。どう考えても。しかし、下山事件というのはこれだけの本が出るってことは、私は知らないけれども、政治的にいろいろのことがあったんだろうねえ。
――そうでしょうね。
金井氏 なにしろあのときの聞き込みで、面白い話がありましてね。二人で、あのとき誰だったか、鈴木さんかな、鈴木さんと二人で聞き込んでたら、床屋でもって髪を切りながらね、(床屋の主人が)こっちのほうばかり見てるんだね。それで帰った。そしたらその床屋のおやじさんがすぐ飛んできて、「あなた方二人は税務署員じゃないか」って。「うちのお客さんが何人来たか調べに来たんじゃないか」って。「違いますよ、下山さんの事件で来たんですよ」って。今でもその床屋あるのか知りませんけどね。そういうことがありましたよ。去年かなあ、日本テレビ系の下請け会社がやったんでしょうけども、わざわざあそこ(五反野?)まで行ってね。ここでいろいろ話して、ここでも撮って、向こうで撮ってね、テレビで放映されたけどね。やっぱり下山事件のことだったね。
――下山総裁の奥さんは、最初自殺かもしれないと言ったようですが。
金井氏 私は全然会ってないです。会ったのは…平塚八っちゃんと須藤民三郎さんかな。須藤っていたの、民三郎さんってね。その二人で行ったの。私は会ってない。
――下山事件の本格的な捜査は1ヶ月位で終わって、あとは細々と…。
金井氏 いや、10月頃まではやったねえ。
――それで他殺の材料は何も出てこなかったと。
金井氏 そう。…あのときには、2号調べ室が本家で、3号調べ室と、捜査二課も来てましたね。なにしろもう、古い昔のことだからねえ。生きてるのは私しかいないから。あとはいないですね、もう。私が一番若かったんですから。
――死体運搬模擬実験の人形は運びましたか。
金井氏 そうそう。現場にいました。そのときは私は一番後ろにいたから、写真には写ってないけども。今、綾瀬の近くに資料館があるらしいねえ。
――ああ、コミュニティセンターが。
金井氏 そうねえ。
――関口由三さんがお書きになった本は、読まれたことはございますか。
金井氏 ああ、読みましたねえ。関口さんの名前の入ったのを貰いました。(雑誌コピーを見ながら)ああこれ関口さんね。これは杣さんね。この(下山氏の)眼鏡を探すので、ようやったけどね。なにしろ、電波探知機とかなんとかってんで。草刈ってねえ、やったけど。一番最後に、なんていったかなあの車は…、D51。D51号。あの機関車を水戸の機関区で分解するんで、私と平塚八っちゃんと一晩泊まりで立ち会ったんです。
――やはり汽車の下は油だらけでしたか。
金井氏 うん。
――当時は東大の先生は他殺だと言っていましたが。
金井氏 古畑先生はねえ、他殺説だった。で、慶応の中館先生が自殺説だった。法医学上ということでね。中館先生も1回くらい来たかな、捜査会議に。黙って聞いてたけどね。
――いろんな説をぶつ人が出ても、捜査が終わってしまうとあまり事件については考えないものですか。
金井氏 事件が終わってしまうとね。後から後から事件が来るから。また殺人事件があって、それを解決しないといけないからね。
――「下山白書」というのが流出しましたが、あれは犯人探しは徹底的にされなかったんですか。(注釈参照)
金井氏 どうでしょうねえ。
――確か共同通信の記者が盗んで流出させたんでしたか。
金井氏 盗んだというか、(警察の)誰かが提供したんだね。誰だか分からないけども。盗んだんじゃなくて提供ですよ。なんていったっけなあ、あの記者は。
――山崎…。
金井氏 ああ、山さんだ。そうそうそう、下山白書、ありましたありました。大分それで、警視庁でね、監察部で調べたけども。分からなかったけど、結局は。誰かが出したんです。そうだそうだ、我々も調べられたから。こっちは大体書類そのものを持ってないんだから。
――じゃあ書類を持っているような、比較的偉い人が流したと。
金井氏 そうそう、上の人がね。
――当時、坂本智元さんという人が刑事部長をやっておられましたね(坂本氏関係の新聞記事を見せる)。この人は確か下山白書流出問題で国会で答弁していたと思いますが。
金井氏 ああ、坂本智元さん。まだご健在なのかね。
――いいえ、この方はもうお亡くなりになっています。
金井氏 (記事コピーを読みながら)そうだ坂本智元だ。下の者には好かれていたよ。懐かしい顔だなあ。京都の本部長だったんだ、最後はね。下山事件のときは、刑事部長はこの人だった。今でも捜査一課の懇親会ってのはあるけどね、1年に1回、だいたい2月頃に。私みたいにもう90歳なんて他にいないけど。
――昔の警察はおおらかで、一般の人が警視庁の建物の中に入っていくことができたと聞きました。いきなり田中警視総監に話をしに行ったりですとか。
金井氏 そうそう。ああ、もう昔は自由。一般人も記者も。
――当時は朝日新聞は他殺説で、毎日新聞は自殺説でしたね。
金井氏 そうですね。毎日はそうだったです。あのときは誰だったかなあ、朝日新聞の担当は。長谷川さんかな。長谷川って記者だったかなあ、警視庁の担当は。毎日は今井さんだったけど。この人は、新聞で自殺と書いた。我々会議した後すぐね。まだ右か左か分からないのに自殺だってことを言ってましたね。もう今井さんもいないんじゃないかな、もう亡くなってね。私より先輩だったから。で、時事新報は…富塚さんだ。読売誰だったろう、竹内さんかな。竹内さんでなくて、星野さんかな。もう亡くなっていないでしょう、星野さん。竹内さんもいない。竹内さんは帝銀事件のあれだから。もう新聞記者もだいたい亡くなっていないでしょう。
――そうですね。
金井氏 何しろあのときは国鉄が、GHQの指示でしょうけども、レッドパージで首切りで大変だったんだ。今と違ってね、もうストライキとかなんとかね。あのときは赤旗だけは自殺説が多かったね、赤旗は。
――下山事件のときは警視庁は自殺説で、検察庁は他殺説だったそうですね。
金井氏 そうなんです。検事とはちょいちょい膝を交えて話すからね、刑事というのは。もう担当の検事というのは決まってるの。
――先程少しお話に出ましたが、金井さんと平塚八兵衛さんとは仲が良かったんですか。
金井氏 そうそう。
――平塚八兵衛さんは気が強くて、ケンカ八兵衛と呼ばれていたそうですね。
金井氏 ああ、そりゃもう話にならない。その代わり、一般の人にはいいんだよ、聞き込みに行ったときなんかね。私は後輩だから仲良かったけどね。私が鳥居坂にいたときの先輩だから。鳥居坂で刑事やってたの。それで見習いに…。今では警察学校だけど、昔は警察の練習所といった。それで3人行ったの。そのときに見習いに行ったわけ、刑事部屋へ。昔は刑事部屋といった。今は捜査課長っていうけども、その当時は捜査主任っていったの、司法主任。そこに八っちゃんがいて、「おい! 3人共な、俺が刑事の見習いを引き受けるから。今日はすぐ帰って、夕方の五時頃私服で来い」って。それで3人共寮へ帰って私服で来たら、「よし、今日はこれから板の間を検挙に行くんだ」と。今は板の間ってないけどね。要するに風呂屋ね。昔はね、ザルだったの。そこから金を取る。それを板の間っていう。それで番台があってね、昔の番台ってのは男と女の両方が見えた。今はこっち向いてるけど、昔は向こう向いてた。で、そこに座ってね、私達は風呂場の中。あの上暖かいんだけど、夏は暑い、冬は暖かい。我々がそこに行ったのは2月だから暖かい。八っちゃんが座ってて、見えるの。お客からは見えないけどね。
――平塚八兵衛さんは目上の人に厳しいんですか。
金井氏 そうそう、上には強いんだ。捜査会議とかでいろいろ話して、それで係長あたりが黙って聞いてて、「それはちょっと足りない。俺の車があるから、それで行ってもう1回聞いてこい」なんて若い刑事に言うわけだ。すると八っちゃんが聞いてて、「おい、ちょっと待て。係長、おめえが行ってこいよ。あんたが行ってもヤクザが話すわけねえけどな」と。そしたら刑事部長が、もう亡くなったけれども、警視総監になった人だったけどもね、土田國保っていう刑事部長が「平塚君、まあそう言わずに、彼らに捜査させたほうがいいんじゃないか」と。(平塚氏はそれに答えて)「じゃあ刑事部長、俺が一緒に付いて行くよ」と。刑事部長が許可を出す前に「おう、そんじゃ行こうか!」と。それで行って帰ってきて「行ってきました。なにもありません、以上!」と。そんな感じでしたね。なにしろ八っちゃんてのはすごかった。八っちゃんは土浦の神立の農家の次男坊。それでも、あの当時で、今でいえば高等学校、昔の旧制中学出てるんだからね。だからローマ字が読めたんですよ。俺びっくりしたのそれ。八っちゃんてのはねえ、やっぱりすごかったですよ。こっちが朝早く行って、炭を起こすんです。部屋にね。炭を起こすのは簡単なんですよ。新聞紙が一枚あれば起きる。新聞紙を刻んでね、くるくるっと丸めるて結わく。結わいたやつを10本くらい立てる。それで周りに炭を置いて、それで火を点ける。そうするといやでも炭は起きる。お茶を沸かして座って待っていた。そしたら、八っちゃんが来て、「金井、今日はお前、1時間くらい前に来たな。なんで分かるか知ってるか」と。私は「いや、分かりません」と。「この炭だよ。この灰、これだけの白い灰になるためには1時間はかからないといけない。覚えておけよ、捜査というのはそういうもんなんだ。炭で時間が分かるんだ。これを掻き回しちゃ分からねえんだぞ。そのままになってるから分かるんだ」と言うんだよ。今は田園警察というのかな、昔は東調布っていうのがあった、警察がね。そこの捜査で聞き込みに行ったときに、「金井、いいな、こういう高級住宅地に来た場合には、“奥さん”と言うんじゃねえぞ。相手が出てきたら“様”を付けるんだ。“さん”と言っちゃ駄目だ。“奥様”と言うんだ」と。それで今の向島ね、向島の捜査本部のときには、「金井、いいな、こういうところでは“おかみさん”と言うんだよ。“奥様”なんて言うんじゃねえぞ」と。「どうだい、おかみさんよお!」なんてね。いやあ、八っちゃんにはいろいろ教わりました。今は個人情報なんだかんだあるから、刑事さんは大変でしょうね。昔と違うからねえ。
――興味深いお話ですね。すごく頭の良い人だったんですね。
金井氏 さっき話した関口(由三)さんてのは、捜査一課に長くいたんですがね、警部補になって鳥居坂に来たんですよ。それで私達が鳥居坂に行ったときに、軍隊から召集解除になって帰ってきた。埼玉県の人でね。この人も捜査一課が長い、うんと長い。浅草の刑事課長やって、最後は南千住の署長だったかな。関口由三さんね。麻布にいたこともあるし、八っちゃんも麻布にいてお互い知り合いだった。それで、こんなことは言っても分からないかもしれないけど、いくら刑事講習とか成績が良くとも、なかなか3年か4年で捜査一課に行くのは少ないんだけれども、なにしろ関口さんとか、平塚八っちゃんとか、そのときのね、今でいえば副署長だね、そのときは所領(?)警部っていったの、甲斐文助っていう、これが捜査一課の係長でいたもんだから。(私は)刑事講習が終わったら神田勤務になったの。神田がね、刑事が増えた。それで行った。その後捜査一課に引っ張られた。結局それは、平塚八っちゃんとか関口さんがいたからね。金井を呼べってわけなんだ。昭和19年から23年、数えて5年目には捜査一課に行った。そのときの係長の甲斐文助さんから、「金井君、捜査一課というのはな、警視庁の表看板だ。数ある課の中において、最も古い歴史と輝かしい伝統を誇るのが捜査第一課だ。いいか、これは先輩の築いてきたものだが、その先輩達に負けない仕事をしてほしい」と言われました。表看板というのは、読売新聞の正力松太郎さんが刑事部長をやっていたときに使った言葉らしいね。だから、私は八っちゃんとか、関口さんとか、甲斐さんに一課へ引っ張られたんだろうね。まあ一番は八っちゃんだろうねえ。
注釈
「下山白書」流出については、関口由三氏の『真実を追う 下山事件捜査官の記録』(サンケイ新聞社)や、佐々木嘉信氏の『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫)に、より詳しい記述があります。警視庁幹部が白書を非公式にリークしたという事実は、自殺断定発表がなんらかの圧力によって不可能になったという説を暗に裏付けているように当サイト管理人には思われます。
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