トップ > マスコミ関連 > Prev > 末広旅館と当時のマスコミ(3) > Next

末広旅館と当時のマスコミ(3)

新聞紙上でも無責任な記事を書かれていた末広旅館ですが、現地の取材攻勢もやはり大変なものでした。平正一氏の『生体れき断』によると(p97)、末広旅館で休憩した下山氏らしき紳士について毎日新聞が報道をした翌日の7月8日、「某一流紙」の記者二名が末広旅館に投宿し、座談会に女将NFさんを引っ張り出して偽情報をもとに誘導尋問をしたのだそうです。彼らの目的は、「休憩したのは下山氏とは別人」という情報をなんとかしてNFさんから無理やり引き出すことでした。その後もアカハタの記者がしつこい取材をしたり、某通信社の記者もNFさんに誘導尋問をしかけてきたようです。結局誘導尋問攻勢は功を奏さず、記者たちが書きたかった記事は世に出ませんでしが、NFさんはノイローゼ気味になってしまいました。実現はしなかったもののNFさんは、「下山さんの奥さんにお目にかかって、自分の見たとおりのことを申し上げてみたい」と希望していたといいます。平正一氏は当時の報道について、「なぜこのうようなことが行われたのか。それはただ末広旅館の女将の証言が、その人たちには都合の悪いことであったと解する以外にない。私は新聞通信社の名誉のために、今日このような卑劣な手段がとられることはないということを申し上げておきたい。しかし当時においてはこれが現実に行われたことを、残念ながら認めないわけにはいかない」と述べています。

夫のNKさんは「(下山氏らしき紳士が休憩したと警察に届け出た結果)家内が心配した通りで、新聞では悪しざまに書かれるし、家内はノイローゼになってしまうし、客はパッタリ寄りつかなくなったのです。三十四年に家内は亡くなってしまいました。屋敷も大半を人手にわたし、私はこの片隅でやっと生きている始末です」と語っています(『生体れき断』p94)。昭和34年7月5日付の毎日新聞によると、宣伝のために事件を利用したのだろうと人に陰口をたたかれ、NFさんは事件後2、3年は神経衰弱のようになってしまったとのことで、よく「あの事件さえなかったら…」と愚痴をこぼしていたそうですが、それでもときおり現場の追悼碑に花などをもってお参りしていたといいます。事件以来客足が途絶えた末広旅館は、昭和31年に建物半分を医者に売り不動産屋に転業していますが、夫のNKさんの言うように、写真を見てみると確かに旅館を営業していたころより敷地や建物が狭くなっているようです。

昭和39年の末広旅館
事件から15年経った時点の末広旅館。昭和39年7月5日付毎日新聞より。

関連項目

トップ > マスコミ関連 > Prev > 末広旅館と当時のマスコミ(3) > Next