平正一氏(毎日新聞)
平正一氏は、朝日、毎日、読売の所謂三大新聞のうちで唯一最終的に自殺の線を強調した毎日新聞社会部の下山事件担当デスクです。戦前戦中は武漢支局長やラングーン支局長を務めたベテラン記者でした。『毎日新聞社会部』の著者山本祐司氏は、平氏を評して「事件に強く、見込みで記事を書かないという信条の持ち主」で「予断をも持たず、冷静に事実を積み上げて報道する姿勢に徹していた」と述べています。事件当時、部下として取材に当たった島村健一氏も「地味だし、古い、という形容が当てはまるようなガンコさもありますが、気取りのない人ですよ。自殺説で孤軍奮闘していたとき、社長も心配して、よく編集局へきていましたが、熊本弁でなにかよくいってました。上司としてもいい人でした。なんというか、やたらやさしいというのではなく、ピシピシと厳しいのに人気がある、といったタイプの人ですよ。」と評しており、職人気質の新聞記者平正一氏像が窺えます。「推理は空想ではない。一定の事実に基づいて、その上に発展し、構成されたものでなければならない。もし基礎事実を無視して、その上に構成されたものであっては、蜃気楼にすぎない。」という平氏自身の下山事件に関する言葉にも、氏のジャーナリストとしての姿勢がよく表れているように思います。
当時の不安に満ち緊迫した社会情勢のなか、下山氏失踪の第一報に事件性を直感したのは、後に自殺説を主張することになる平氏も例外ではありませんでした。しかしながら、毎日新聞は事件発生から間もない7月8日には末広旅館のスクープとともに「好き勝手な臆説は慎むべき」という趣旨の社説を載せ、自他殺情報両方を扱いつつ、センセーショナルな見出しや飛躍した推測に基づく主張を極力抑えるようになります。実際に当時の新聞を読めば、「他殺説が決定的」「下山氏自殺説は消滅」と早々と断定的に報じる他紙とは、明らかに一線を画す紙面作りを平氏が心がけていたのが分かります。他紙は他殺という派手で分かりやすく一般受けする主張、それに対して毎日新聞は一見地味な紙面の根底に、「いい加減な情報や無責任な推測は決して載せない」という主張があったといえます。
平氏は「あらゆる権力から独立し、左右に偏しない」という編集綱領に則った報道をしていましたが、こういった方針は明確なストーリーや面白さを求めていた読者には受けず、また、「九月革命説」という空説がそれなりにまことしやかに語られていた当時は、自他殺情報をバランスよく載せることは中立とは見なされず、売国的だという非難の投書が編集部に多数寄せられました。他紙にも「素人すじ」「科学を信ぜぬ者を恐れる」としてあからさまに指弾されるだけでなく、売り上げを強く意識する毎日新聞社内からの突き上げもあり、平氏を誹謗した「赤旗編集長を命ず」というビラが社内のいたるところに貼りめぐらされたこともあったそうです。平氏はその頃の思いを「何百万という読者を乗せた私の船は、ただ一隻だけ、コースをあやまって進んでいるのであろうか。フト、孤独にも似た不安がこみあげてきた。しかし、われわれがとった取材方針と、その活動に対するわれわれの自信はくずれなかった。」と著書『生体れき断』で述懐しています。なお、『下山事件全研究』の著者佐藤一氏は、「毎日新聞社内でも下山事件デスクは孤立気味で、共産党の手先という噂までたてられたそうです。そんなある日、共産党の代議士(当時のデスク平正一氏の記憶では林百郎、梨木作次郎両氏であったといいます)が編集部まで激励に来たということですが、それこそかえって有難迷惑だった、というのが関係者の述懐です。」、「私は平氏に何度も会いましたが、この人は左翼じゃない。むしろ右翼的な人です。だからああいう状況のなかで、頑固に自殺説の紙面を守れたのだと、私はひそかに考えております。」と述べています。
内外からの批判に動揺せず、当初からの方針を曲げなかった毎日新聞社会部でしたが、結果的に誤報となってしまった警視庁の自殺発表記事(昭和24年8月3日付の1面トップに「下山事件近く結論発表」「特捜本部、自殺と断定」「きょう合同会議」と5段見出しの特大記事を掲載)によって彼らは決定的に孤立無援となりました。この後、懲罰人事で下山事件取材班はバラバラとなり、平氏にも熊本支局長とする辞令が出されました(熊本支局長を1年4ヶ月、西部本社連絡部長を6ヶ月、報道部長を1年務め、再度西部連絡部長を経て東京本社に連絡部長として戻ったのが5年後)。社会部の若月五朗記者の送別会には、当時の警視総監田中栄一氏が訪れ、制服のまま頭を畳にすりつけ「どうか、お察しください」と平伏し動かなかったそうです。このときの下山事件報道を題材とした井上靖の小説『黒い潮』では、平氏は主人公速水記者のモデルになっています。昭和34年に毎日新聞社を退社した後も平氏はライフワークとして下山事件の取材を続け、昭和39年(1964年)には取材と考察の集大成『生体れき断』を上梓していますが、それからあまり時を経ず昭和42年1月にリンパ腺腫で62歳のときに亡くなっています。
毎日新聞編集局。『生体れき断』より。
平正一氏。週刊文春昭和40年10月18日号(左)、サンデー毎日昭和39年7月12日号(右)より。
平正一氏。朝日新聞夕刊2008年5月14日付(左)、毎日新聞昭和34年7月5日付(右)より。墓碑には「かたくなと人はいふとも一本の/すがしき道をゆきて死にき」とあるそうです。
参考文献・サイト
- 「下山・三鷹事件の楽屋裏」 真相、1949(昭和24)年9月1日号
- 「三鷹・下山事件を追いかけて」 サンデー毎日、1949(昭和24)年9月4日号
- 「民衆を愚弄する三大新聞(多田計)」 潮流、1949(昭和24)年10月号
- 「下山事件をめぐる新聞合戦(大宅壮一)」 日本週報、1950(昭和25)年2月16日号
- 「『黒い潮』の主人公は語る(平正一)」 in 『毎日新聞の24時間』 住本利男編、鱒書房、1955(昭和30)年
- 「“黯い潮”の発端(丸山仁)」 サンデー毎日特別号、1957(昭和32)年5月1日号
- 「左手で出した百円札 下山事件自殺説のかげに(高橋久勝)」 in 『事件の裏窓』 毎日新聞社会部編、毎日新聞社、1959(昭和34)年
- 「下山事件 ナゾ秘めて十年」 毎日新聞、1959(昭和34)年7月5日付
- 「なつメロ 社会部長の唄(黒崎貞治郎)」 中央公論、1961(昭和36)年6月号
- 「下山総裁自殺説の証人(平正一)」 文藝春秋、1963(昭和38)年6月1日号
- 『生体れき断』 平正一著、毎日学生出版社、1964(昭和39)年
- 「下山他殺鑑定書への疑問(平正一)」 サンデー毎日、1964(昭和39)年7月12日号
- 「下山事件 自殺か他殺かの謎(黒崎貞治郎)」 潮、1965(昭和40)年12月号
- 「あの“特ダネ”記者は今どうしている」 週刊文春、1965(昭和40)年10月18日号
- 「平正一証言」 in 『資料・下山事件』 下山事件研究会編、みすず書房、1969(昭和44)年
- 「下山事件にみる戦後共産党史(下)(佐藤一)」、社会評論45号、1983(昭和58)年11月
- 「下山事件・松川事件の真実――佐藤一」 in 『戦後史とライフヒストリー』 河西宏祐編、日本評論社、1989(平成1)年
- 『20世紀事件史 歴史の現場』 毎日新聞社編、毎日新聞社、2000(平成12)年
- 『「毎日」の3世紀――新聞が見つめた激流130年』 毎日新聞社編、毎日新聞社、2002(平成14)年
- 『毎日新聞社会部』 山本祐司著、河出書房新社、2006(平成18)年
- 「記者風伝 平正一 その一、その二(河谷史夫)」 朝日新聞(夕刊)、2008(平成20)年5月13、14日付
- 銀座一丁目新聞 追悼録(3)(柳路夫)
- 銀座一丁目新聞 追悼録(313)(柳路夫)
- 「毎日新聞社会部」(教育タイムズ)