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総裁の死体を運んだ男“S”

下山氏の死体を轢断地点まで運んだという「S」という男の話は、下山事件に興味のある方なら誰でもご存知でしょう(矢田喜美雄著 『謀殺 下山事件(新風舎文庫版)』p403-412)。生温かく柔らかい死体を運んだ話は生々しくリアリティがありますが、矢田氏は「私がどのようにして彼を知り、話をきいたのか、そのいきさつを語ることができないのが残念である」と述べており、Sと矢田氏の関係はほとんど知ることができません。

しかし、1977年(昭和57年)出版の『語りつぐ昭和史』(朝日新聞社)には、矢田氏自らがある程度詳しく経緯を話しています(p199-205)。矢田氏は、Sという男の存在について事件の2年後に布施検事から聞いていたとのことです。事件後、遠く北海道に逃れていたSはしばらくして東京に戻り、山谷のドヤ街で時効成立までじっと身を潜めていました。次に、誰が仲人になったのか、意味がちょっと取りにくいのですが、「幸いに、事件を追っていた警視庁の早稲田大学出の刑事さんの協力で、私はSの結婚話を知って、仲人になってもらったのです」とあり、結婚し家庭をもったことがわかります。Sは戦時中に硫黄島で憲兵を撃ち殺した前歴があり、終戦後も盗み等をはたらいていましたが、結婚後は犯罪とは縁を切って真面目に仕事をしていたとされています。Sに子供が2人できた頃、矢田氏は「正体を現し」、親子4人暮らしは経済的に苦しいというS家の家計を支えるため、毎月3万円渡すかわりに「下山事件の情報交換をSに要求し」ました。3万を受け取りにSは毎月新聞社に現れ、その際に必ず情報を提供したそうです。このような関係は昭和48年まで7年続いたということですから、満7年だとすると当時で計252万円ものお金を渡したことになるのでしょうか。ちなみに、昭和42年の大卒初任給は26,200円、昭和48年が57,000円くらいだったようです(参考サイト12)。

細かい記述は『謀殺 下山事件』とやや食い違う箇所があります。例えば、『謀殺』では「Sの談話は昭和四十五年夏までに十回以上話し合った」とありますが、『語りつぐ昭和史』では、「こうして、Sの情報は何冊かの厚いノートとなりました。昭和四十八年秋のことです」とあります。また、7年間毎月情報を提供していたなら「十回以上」程度では済まないはずです。

いずれにせよ、建設技術者として「立派に更生」した「総裁の死体を運んだ男S」は、情報提供の見返りとしてかなりの金額を得ていたことになり、時効が成立したからという以外に、他殺情報を追う新聞記者が喜びそうな「真相」を小出しにして提供し続けるに十分な理由はあったといえそうです。また、S情報が本当だとすると、シグナル付近などの血痕が説明がつかなくなり、矢田氏自身による死体運搬ルートの説明とは完全に整合しないことが指摘されています(『下山事件全研究』p578)。元警視庁捜査二課の刑事で矢田氏と懇意だった大原茂夫氏が「俺はデカ(刑事)だからブツ(証拠品)がなけりゃ信用しないんだ。でも、オヤジ(矢田さんのこと)が、これに(S証言に)惚れてんだよなー」(『謀殺 下山事件(新風舎文庫版)』p485)と述べて全く重視していないのも当然かもしれません。

なお、「時効直前にあった出来事はプロパガンダ説」の柴田哲孝氏は、矢田氏がSを知ったのが時効一年前だという理由で、S証言は情報を撹乱させるためのプロパガンダではないかと考えています。また、犯人グループが死体運搬のために新たに人を雇えば証人が増え、その分情報が外部に漏れるリスクが増すという常識的な推論をしていますが、著書の別の箇所では、死体運搬者も含めて数多くの人間が役割分担をしたからこそ事件の真相が今なお謎なのだと矛盾したことを述べています(『下山事件 最後の証言(文庫版)』p361-362、p463) 。

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