“血抜き”と他殺説
「法医学論争」で今後より詳しく取り扱う予定ですが、鑑定書作成者の桑島直樹氏は「血を抜いたような傷は皮膚表面のどこにもなく」、「肺臓には血液が多かった」と述べ、失血死説(血抜きによる殺害)を強く否定しており、下山氏が血を抜かれて死んだ可能性は低いといえます。では、解剖所見およびそれに密接に関係する事柄がどのように記述されているか、主要な他殺説の文献を見てみましょう。
松本清張著『日本の黒い霧』(文春文庫)p15-17
- 絞殺、毒殺、銃殺、外傷による出血などはみとめられない
- 体は5つに離断されていた(胴体、首頭部、右腕、両足首)
- 頭部は粉砕、顔の表皮だけが剥ぎ取られたようになっている
- 肋骨は押しつぶされたように折れている
- 心臓には孔があき、肋骨の間から外部に飛び出している
- 三百数十箇所の疵がある
- 轢断面には生活反応がない
- 薬物は検出されなかった
- 死体に血液が少ない
矢田喜美雄著『謀殺 下山事件』(新風舎文庫)p32-35、110、123
- 体は5つに離断されていた(胴体、首頭部、右腕、両足首)
- 顔面が頭部から離段
- 脳が頭蓋骨から脱離
- 胴体は脚部を伴っていない
- 内臓に欠損
- 骨盤が粉砕
- 死斑がない
- 死体にはほとんど血液が残存していない
- 全身に380箇所の傷
- 顔の表皮に20箇所の傷
- 生活反応のある傷とない傷に分かれた
- 圧倒的に多かったのは生活反応のない傷
- 全ての離断面には生活反応がない
- 全身の擦過傷には生活反応がない
- 両手足の皮下出血(生活反応)
- 睾丸と陰茎の出血(生活反応)
- 眼瞼の皮下出血(生活反応)
- 内臓の粘膜出血(生活反応)
- 胃の中は空
- 血液型はA型
- 死亡推定時刻は5日夜
- 薬物は検出されず
- 歯がバラバラに抜けている
- 胸部は肋骨が押しつぶされたように折れている
- 心臓が右胸部に転位して孔があいている
- 腹部は破裂し内臓が外に出ている
- 死因は睾丸への外力によるショック死
- 死後轢断である
斉藤茂男著『夢追い人よ』(築地書館)p14-15
- 頭部、左肩、左下腿、右足関節の4つにバラバラになっている
- 生活反応を示している損傷がある(数十箇所、全て打撲)
- 生活反応を示していない損傷がある(三百数十箇所、全て切り傷)
- 死後轢断
- 死因不明
柴田哲孝著『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p100-102
- 血液型はAMQ型
- 体重は66キログラム
- 体は5つに離断されていた(胴体、首頭部、右腕、両足首)
- 胸腹部の内臓に大きな欠損あり
- 骨盤が粉砕
- 顔面が頭部から離断
- 脳が頭蓋骨から脱離
- 死体にはほとんど血液が残存していない
- 心臓には孔が開いており、やはり血液がない
- 全ての離断面には生活反応がない
- 全身に380箇所の傷
- 生活反応のある傷とない傷に分かれる
- 両手足の皮下出血(生活反応)
- 睾丸と陰茎の出血(生活反応)
- 眼瞼の皮下出血(生活反応)
- 内臓の粘膜出血(生活反応)
- 死因は不明
諸永裕司著『葬られた夏 追跡下山事件』(朝日文庫)p45、132
- バラバラの死体があった
- 腰から下がねじれて首はない
- 遺体に残された血が極端に少なかった
- 380箇所の疵があったが、睾丸や両手足の皮下出血を除けば生体反応はほとんどなかった
森達也著『シモヤマ・ケース』(新潮文庫)p52-54、74
- 体は5つに離断されていた
- 体重は66キログラム
- 全身に380箇所の傷
- 生活反応のある傷とない傷に分かれる
- 両手足の皮下出血(生活反応)
- 睾丸と陰茎の出血(生活反応)
- 眼瞼の皮下出血(生活反応)
- 内臓の粘膜出血(生活反応)
- 死体にはほとんど血液が残存していない
これら他殺説の文献に共通するのは、失血死を否定する解剖所見および執刀医桑島氏の見解を完全に無視しているという点、そして下山氏の死因として失血死を主張しているという点です。なかでも『謀殺 下山事件』と『下山事件 最後の証言』はその他の所見は相当詳しく記述しているにもかかわらず、血抜き殺害説に都合の悪い部分だけは何も触れておらず、不自然極まりないといえるでしょう。特に東大法医学教室に“特別研究生”として自由に出入りしていた矢田喜美雄氏が、桑島氏の主張を知らぬはずはありません。不利な情報は徹底的に無視する一方で都合の良い事実だけをつまみ食いし、読者を魅了するような“面白い”ストーリーを組立てていくという態度は、この件に限らず他殺説文献の著者らに多々見受けられます。