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吉松富弥氏証言

平成元年(1989年)7月21日付の毎日新聞夕刊には、“下山事件から40年 「自殺」と夫人語った 親交の当時学生が新証言 「口止めされていた」”という記事が掲載されています。この「親交の当時学生」とは、昭和24年の事件発生当時下山家の近所に住んでおられた吉松富弥さんというお方で、彼は下山氏の死亡が発覚した直後、直接芳子夫人から「夫は自殺したと思うが口外しないでほしい」という言葉を聞いておられます。吉松氏は下山事件発生から60年目の2009年7月初旬に、知人らを前にして下山事件をめぐる自らの体験や見解を約一時間半に渡って語り、その内容を録音されておりますが、本サイト管理人はそのテープを吉松氏のご厚意で譲っていただきました。吉松氏はその内容を世に残すことを非常に強く望んでおられ、また管理人も貴重な資料であると考えたため、ここにテープの音声とその文字起こししたものを公開します。当初、管理人は吉松氏のご本名はイニシャル等にして伏せる考えでしたが、吉松氏ご本人が実名での公開を強く希望されました。大変貴重な資料を提供してくださった吉松富弥氏のご厚意に改めて感謝いたします。

吉松富弥氏証言テープ文字起こし

これから下山国鉄総裁の死について、お話を申し上げたいと思います。下山総裁が亡くなったのは昭和24年7月5日です。それから、もう既に60年を経とうとしてますが、7月5日の命日が、近づいて参りました。7月5日は下山初代国鉄総裁の亡くなった命日です。そして、ちょうど60回目になります。この期に及んで、総裁と一番近くにいた、もちろん奥さんのよし夫人、それから下山総裁が一番信頼されていた、副総裁の加賀山副総裁、それと私、この一番近くにいた三人のうち、生き残っているのは私一人になりました。ここで、総裁の死について、いろいろ今まで小説に書かれたり、あるいは謀殺だ他殺だといって物語になったり、いろいろしてまいりましたけども、真実はただひとつです。そのひとつの真実について、私はこれから下山家との交際の始まったときから、現在に至るまでのいろいろな問題をここで申し上げて、真実を後に残す責任を感じております。60年の沈黙を破って、ここでお話できることは、非常に私は、自分の人生のひとつの区切りとして非常に貴重であるし、また、どうしてもこの世でしなければならないことのひとつに考えております。さて、下山家との交際の始まりは戦前になります。即ち総裁は名古屋の鉄道管理局長から栄転されて、東京の鉄道管理局長になり、戦前に東京の私のうちのすぐ近く、100メーターくらいのところの国鉄の洋風の官舎に引越してまいりました。そこの国鉄総裁の息子さんたちは四人おりまして、一番長男の定彦君は、ちょうど府立の八中に在学、私は府立の六中に在学、まあそんなことで、同じ府立同士ということで、すぐに近くでもあるし友達となり、更に近くに、戦後巨人軍の一番初代の総監督をやられた市岡忠男さんが住んでおりまして、そこの息子さんの市岡宏君も同じほとんどひとつ私の下でしたけども、まあこの三人は当時三人組として非常に親しく友達としてキャッチボールをしたり、いろいろな話し合いをしたりして、遊び友達であったわけです。昭和19年、戦争も激しくなり、いよいよ日本も戦場になろうとするときに、志を立てて、この三人は海軍へ行こうということで、まずはじめに私と定彦君が海軍を志しました。私は海軍兵学校を志し、海軍兵学校に入学することになり、定彦君は予科練に、海軍の予科練に行くことになり、更に一年遅れて市岡宏君は、海軍兵学校の一期下、私は76期ですが、77期として入校してくるという位に三人とも非常に志を同じくして、海軍に身を投じました。戦い利会わずして敗戦になり終戦になり三人ともまたもとの家へ復員してまいりました。同じ海軍に籍を置いたということも加わって、三人の友情は非常に強いものになりました。なにかにつけては相談したりあるいは遊んだり、話し合いをしたりというチャンスも非常に増えて、戦後の荒廃した世の中に各々皆学校へ再入学を志しました。下山定彦君は工業大学に進み、私は早稲田大学の理工学部に進み、市岡君も早稲田に進んだと思います。そんなことで非常に親しく下山家とは付き合わせていただくようになりまして、総裁とも何回となく顔を見合わせるチャンスがあり、また、呼ばれてお話するチャンスもあり、私の考えるにはそれ程大変偉い方なものですから、私はあまりお話するチャンスには恵まれなかったんですが、戦後、マッカーサー司令部の非常にお気に入りで、下山国鉄総裁として指名されてマッカーサー司令部からの指名によって、国鉄総裁に就任されました。それまで国鉄総裁というのは大体文科系な人でしたけども、下山総裁は東大の機械科を出られた、現場出身の技術屋さんの総裁として初めて国鉄総裁になられた方です。私も技術屋、息子さんも技術屋、そんなこともあって、非常に総裁にはなにかと声をかけていただきました。国鉄総裁になられてから、非常に荒廃した、戦災でやられた、国鉄を再建するために総裁は忙しい毎日を送っておられましたけども、そのなかでたまにはマッカーサー司令部からなにかハムをいただいたとかいうので、奥さんが私に電話をしてくれて、今日はハムライス作ったから富弥さん食べにいらっしゃいとか、そういうようなときには総裁も一緒にいらして、晩御飯を一緒に食べさせていただいたり、そんなことは何回もありました。私は早稲田に行く学校のちょうど長原の洗足池の駅に行く途中に総裁のお宅がありましたんで、その前を通ると、ある日総裁がちょうど玄関から出て奥さんと女中さんが見送りをされてました。たまたまそこを通りかかったら、「おい富弥君、学校行くのか、よかったら五反田まで乗せていくよ」。「ああすみませんねえ、そんないい車に乗せていただいて。じゃあ是非乗せてください」。私は下駄履きの汚れた手ぬぐいをぶら下げたまったくバンカラの学生にもかかわらず、総裁の車に乗せていただきました。総裁の車はフォードの進駐軍から払下げられた、ガソリンで動く自動車です。ガソリンで動くというと、今ではまったくなにか夢のようですが、当時は日本の自動車はほとんど木炭自動車だったんです。木炭を焼いてそれで薪を炊いたり木炭で走っていたという具合で、ガソリンで走る自動車なんていうのはとても珍しいし、高級車もいいところで、そこへ乗せていただいて五反田まで送っていただきました。五反田駅は今と違ってちょうど駅の前の今のバスの停留所あたりの前が改札口でしたけども、すごい国鉄の総裁の自動車、フォードの自動車が停まって下駄を履いたバンカラの私が降りてきて、切符切りの国鉄の職員さんがキョロキョロして驚いていたようなことが、定期を出して入るときに驚いたことが記憶に残っています。その間にいろんなお話もしてくれました。自動車の中で伺ったお話は、ひとつには五反田までの間は短かったんですが、「やあ、富弥君、困ってることがあるんだよ。今進駐軍が天皇陛下より偉いから、マッカーサー司令部との連絡に年中仕事で追われているんだけれども、君も知っているように、電車の山手線や京浜東北、中央線その他電車にみんな一番最後に進駐軍専用のオフリミットという札を出した進駐軍のGI専門の車両をひとつ付けてるのは知ってるだろうが、これをもう一両増やせというのが、マッカーサー司令部からの指令で、私はこの間2、3日前に聞いてきたんだけれども、とてもそんなことはできないと。今はもう戦災で車両は少ないし、日本の国民がもう働くのに一生懸命、駅に通ってすし詰めになって、電車の要するに押し係がいるくぐらいに満員電車で扉を閉めるのに大変なぐらいな満員電車にもかかわらず、車両が少ないのに、とてもじゃないけど進駐軍専用のガラガラの車両を付け加えるなんてのは、とてもできませんよ。車両が足りません。もうちょっと待ってください。というようなことで、言い逃れをしてきたんだけれども、まあとても無理な話だよ。車両はとてもじゃないけどもっと国民のために増やさなきゃならないときに、進駐軍専用のもうひとつ車両を足すなんてのはとんでもない話だ」。まあそんな話も伺いました。それから、やがてまたご飯にご馳走になったときには、「富弥君、君は今理工学部の何をやっているんだ?」。「早稲田の電気工学に行っているんです」。「ああ、それはちょうどいい。定彦と一緒に国鉄へ来いよ。卒業したらすぐ国鉄へいらっしゃい」。「分りました、国鉄は私も喜んで行かせていただきます」。「その代わり条件があるよ」。「なんですか」。「電気鉄道の単位だけは取っておいてくれ」。「わかりました」。まあ、あるいは電気鉄道の単位だけを取っておけば総裁推薦で入れてくれるなんて甘い考えがあったかもしれませんけども、まあともかく電気鉄道の単位は取るようにしました。まあそんなこともお話の中にひとつある。また、あるときは、………下山総裁には弟さんがいらっしゃって、弟さんはですね、下山常夫さんとおっしゃって、この方はまた背の高いよくご兄弟似ていらっしゃる弟さんでした。この弟さんは東京都の自動車局長をやられてました。その弟さんのために総裁がある晩、富弥君ちょっと来てくれと、ちょっと相談があるんだけどということで、伺ったところが、実は今ほかに住んでるんだけど、この近くへ引っ越して来たいということで、弟の常夫が言っているんだけれども、君のお父さんはこの町会の町会長だし、また、大田区の区会議員もやられてる人だし、地元ではいろんなことをよく知ってる名士でいらっしゃるから、ひとつ土地を紹介してくれないかと。この近くに引っ越して来たいということなんだけど、お父さんに頼んでくれないかということで、私は分りました、父に言いましょうって言って帰って父に相談したところ、うちの父は、うちの今の自宅の小池小学校の上の自宅の下とそれからもうちょっと離れたところに二軒で、合計三軒の借家を持ってましたけども、全部これは空襲で焼けてしまいました。で、更地になっていました。そこでこのみっつのうちどれでもいいから、一区画、要するに借地権ですね、地主さんから借りてた土地ですから、借地権を譲ってあげるよ、下山さんが見て回って好きなところあったらいいよ、という話でさっそくそれを総裁に伝えたところが、ああよかったと、じゃあ一回常夫に来たときに土地を見せてもらって、常夫の気に入ったところをひとつ借地権を譲ってもらってそこに家を建てて住むようにしたいということで、早速に弟さんがうちに見えてうちの親父に挨拶をして、借地権を譲って、お譲りして、常夫さんはそこに自宅をお建てになりました。まあもちろん奥さんと二人とも背の高い方で、この常夫さんの子供さんは、お嬢さんが二人おりましたけれども、二人とも背の高い方です。まあそんなことで、下山家の総裁と、また総裁の弟さん、まあ私のうちとちょうど真ん中ぐらいになります、中間にうちがあったような形になりますが、非常に親しく交際をさせていただき、学校の話、あるいは進駐軍の話、いろいろなお話を、記憶にある程度ではこの程度ですが、まあそんなことで、非常に可愛がって頂いたことはもう間違いありませんし、息子さんに話せないことも私にはいろいろ、その進駐軍の話だとか、あるいは、まあ政府の話はほとんど私は聞きませんでしたが、そのときの政府は第三次吉田内閣の時代ですから、その政府からどうのという問題じゃなくて、国鉄対マッカーサー司令部という図式で国鉄の再建が図られていったというようなことになりました。そこでもうひとつ最後に国鉄総裁にお会いしたのが、総裁の亡くなる数日前だと記憶してます。総裁から電話が直接かかってまいりまして、私のおふくろが電話に出て、「富弥さん、総裁からお電話よ」。「はいわかりました」。出てみたら、「富弥君、今暇かね。暇だったら実は司令部に行ったら葉巻を二本貰ったから、これをかけて、うちの息子とマージャンやろうじゃないか」と。「ああいいですねえ、ちょうど私も終わったんですぐ伺います」ということで、総裁のうちへ伺いました。まあ総裁は待っていて、ちょうど正面玄関入ると、すぐ左側に二階に上がる階段、その横を通って奥に行くと応接間というふうな間取りだったんですが、応接間でマージャンをやろうということで、葉巻を二本見せてくれまして、「勝ったらやるよ」。「分りました」。「お父さんに持って行きなさい」。「どうもありがとうございます」。というようなことでマージャンをやって、そのときのマージャンに私が勝ったのか負けたのか、あまりそこまで記憶はありませんけれども、負けなかったとは思います。だけど一番勝ったとも思っていません。しかし、マージャンが終わって帰り際に、息子さんたちはマージャン牌を片付けたり、そこらを片付けて、自分の部屋に帰ったんでしょう。私は玄関のところでちょっと総裁が立ち止まったんで、「富弥君、いやあ参ったよ」。「なんですか」。「いやね、マッカーサー司令部からね、職員を切れと、国鉄の職員の首を切れっていう命令が出ちゃって弱ってるんだ。十万人も切れって言うんだ。こんなことを君できると思うかね」。「どうしてそんなに切るんですか」。「いや人数が多すぎるとかいうことだけれども、これはそうじゃないと思う。ともかく天皇陛下より偉いマッカーサー元帥の言うことだから、私は言うことをきかなきゃ命令に従わざるをえない。これはもう間違いのないことなんだけれども、十万人の首を切れという、私は現場出身で技術屋だし機関区出身で、名古屋の機関区長から名古屋の鉄道局長、東京鉄道局長、総裁になった人間で、もう部下を切るなんて考えたこともない。ましてや今は国鉄再建のために、ひとりでも国鉄の人が増えてくれることを望んでるんだ。そういう時期に首を切れっていっても俺はできないっていうことも言えないし、かといってやれって言われても困るし、弱ってるんだ。一番どうにもしょうがない。しかし、この国鉄の首切りというのは、マッカーサー司令部はなんでそういうことを言うのか、私には解らない。国鉄が経営難で人員を削減しようというのならこれまた話は別だ。しかし当時は国有鉄道だし、そこでもって経済的に国鉄は困っていたわけではまったくないし、人数も余っていたわけでもないし、そんなときに首を切るというその元にあるものは何だと君は思うかね」。私が「ちょっと解りかねますけれども」と。「それは俺は解っている。これは戦争に取られた若い人たち、ちょうど働き盛りの人たちが国鉄の職員がどんどん兵隊にとられて戦地に行き、南方に行き、シナ大陸に行って、それで、たくさんの人間が戦死したけれども、皆生き残って今復員でどんどん帰ってきてるだろう。この昭和の終戦から三年ぐらい経ってどんどんどんどん復員で引き返す。もちろん国鉄にもたくさんの人が復員して命を失わないで帰ってきたんだ。その人たちを我々は受け入れて一生懸命また車両を作ったり線路を直したり、またパンタグラフを直したり、国鉄再建に努力してるときにマッカーサー元帥が首切れってのは、それは君ね、やっぱりね、復員軍人を受け入れることを気に入らないんだよ。こういうことだと俺は思うよ。だけど、私はマッカーサー司令部の言うことには反発できないから、首は一応切らなきゃならないと思う。しかし、私はおめおめと国鉄総裁の(地位に)いるわけにはいかない。従業員、職員の首を切る場合には私も国鉄は辞めるつもりだ」。「いや、総裁頑張ってくださいよ。辞めるなんて言わないで頑張ってください」。もちろんその横には奥さんも立って聞いていました。「いやあともかくね、参ったよ。だけどまあしょうがない。これも天皇陛下より偉い人の命令だから、俺は逆らうわけにはいかないからそのつもりだよ。まあそんなそんなことだ」。というようなことで、そこを私は、「ではお休みなさい」(と言って)葉巻を二本、上着のポケットに二本刺して、「この葉巻は頂いて行きます。親父喜ぶと思いますよ」と言いながら、「じゃあおやすみなさい」と言って私はそのまま帰りました。それから数日後です。国鉄総裁の、私は、死を知りました。これは何故かと、何故そんなことになったのか、私にはそのときはまるでもう見当もつきませんでした。それが解ったのは、たまたま早稲田からの帰り、私は行きは洗足池、帰りは長原から降りて坂をだらだら帰ってくるのをひとつの…通学しておりましたけども、長原から歩いてきたら、真正面に交差点の向こうの…左に曲がればうちです、ちょっとまっすぐ行けば左側が国鉄総裁のうちです、(そこに)自動車が4、5台停まってるんです。そんなことは今まで見たこともない。これはなにかあったのかなあ、と思って私はそろそろっと総裁のうちの前まで行ったら4、5人の男性、新聞記者か刑事か知りませんけれども、私服のおそらく新聞記者さんだったと思いますけれども、ウロウロウロウロしてるわけです。裏口と表玄関のところにウロウロしている。そこへふっと私裏口から入ってきたとき偶然というか、あれは私を見ていたのか知りませんけれども偶然でしょう、お勝手の戸が開いて、国鉄総裁のうちに同居してる、大西運転手さんの奥さんです、この方は、離れのところに、総裁のうちに同居しておりました。大西さんは総裁の運転手、その奥さんはどちらかといえば、総裁夫人のお手伝いをしてたんだと思います。いろいろ食事の用意をしたり、あるいはお使いに行ったり、そういうふうなこともなさってたと思いますけれども、もちろん私とは顔なじみで、「ああ富弥さん、ちょっと早く中に入ってください」(と言いました)。「どうしたんです」。「いやあの、総裁が亡くなって、今奥さんが二階にいらっしゃいますから、すぐ行ってあげてください」。「ああ、わかった」。それからすぐ裏口から正面玄関の前の階段を二階へ上がっていきました。二階は、二階の階段を上がるとすぐ右側が十畳ほどのお座敷です。大きなお座敷になって、床の間が奥にあったというような間取りでございますけれども、その床の間の前に座布団を敷いて、奥さんがひとりで正座してじっと座っておられる。いきなり僕は立ったまま「おばさん、なにかあったんですか、どうしたんですか、総裁はどうしたんですか」(と言うと夫人が)「ちょっとそこに富弥さん座りなさい。実はお父さん亡くなったのよ」。「ええ、どうしたんですか」。「実は自殺したんだと私はそう思ってる。今定彦が現場検証に五反野ってところまで行って確認に行ってるけれども、私はお父さんは自殺したと思ってます。だけどこのことについては富弥さん一切人に言わないでくださいね」。「分りました」。という会話で、なんと私は申し上げていいのか分らず、その席を立ってすぐうちへ帰りました。うちへ帰ってもちろん両親にも誰にも一切これは口外してもらっては困ると、「私が主人は自殺したと思う」ということを自体になにかやっぱり…なにか言ってもらっちゃ困るというなにかがあったんでしょうねえ。それで私もこのことについては一切口外しないというふうに決心をして、これは奥さんからの口外するなと言われれば、お世話になった総裁、総裁の奥さん、その方に言われた言葉の重さというのはひしひしと感じておりましたから、この問題については一切口外しないと、まあそのまま事が済めばよかったんですが、その翌日ぐらいから、私のうちの玄関には4、5人の新聞記者が常に座っていました。私が学校に行くときには付いてきました。それで池上線に乗り、学校まで行って学校の教室の外まで付いてきました。また、あるときには私は帰りに山本という、私の死んだ女房の実家ですが、そのうちに同じ兵学校の兄貴がいたもんでそこにマージャンをしに行ったりする。その田園調布の山本家の門の前まで後ろに付いてきます。もちろんうちに帰ればまた夜もずっとそこに座ってる。朝またそこに座ってる。約二週間ぐらい私は新聞記者攻めに夜討ち朝駆けに合いました。私の心は揺れました。こんなに一生懸命新聞記者さんが追っかけてくれてる、これ、なにか私から聞きだそうとしてることは分るけども、これを一言言うことは、もちろん下山国鉄総裁との交際とか進駐軍の今のお話とか、あるいは進駐軍の車両を増やすとか、あるいは労働組合の問題とか、今の首切りの問題とかってことについてはお話できるけれども、そのほか、今の夫人の自殺したと私は思っているという、この下山総裁が亡くなった直後の夫人の直感を私は鋭く受け止めてこれはもう間違いない、奥さんなんだと。何十年と一緒に暮している、一緒に生活している主人と女房という関係のその人の直感というのを私はもう絶対信じてました。ですからこれは言っちゃいけないことだ。ということは新聞記者にしゃべれば……(聞き取れず)かもしれない。べろっとしゃべってしまうかもしれないという恐れもあったので、私は一切「もう私は知りません、知りません」。いくらついてきてなにかしゃべってくれと言われても、結局二週間くらいだと思いますけれども、まったく新聞記者さんの攻めに合ってしまいました。まあ申し訳ないことをしましたけれども、なにも一言もしゃべらずにことは進んで、あと私は新聞記事が毎日のように他殺だ自殺だといういろいろな記事が出てるのをまあ第三者的に眺めてることで、このことだけは絶対に守ろうと考えてました。さて、いよいよそれから先の問題は長くなりますけども、新聞記者から解放されて普通の生活に戻りました。しかし、下山国鉄総裁は、今の官舎は国鉄総裁の官舎ですから、そこを出ないわけにもいかなかったんでしょう。近くに引越しをされました。それからですね、私は一回だけ総裁の夫人にお会いしてます。その一回はたまたま日曜日に私は外にちょっと出て散歩みたいになにか洗足池のほうに行こうと思ったときに、たまたま総裁夫人が左のほうからみえて、「あ、富弥さん、おはよう。どこいくの?」と言うから、「ええちょっと、本屋まで」というようなことでいってたんですが、「よかったら私と一緒に教会に行きましょう」と。「なんですか」と言ったら「いや白百合…長原の教会に行って、お父さんの冥福を祈るお祈りをしてこようかと思ってるのよ。富弥さんも一緒にいらっしゃいよ」。「ああそれはもう是非行かせてください」。別に私はクリスチャンでもなんでもありませんけれども、総裁夫人に誘われて、ああそれはいいことだと思ったので、一緒に長原の教会に行きました。で、教会に行ってまあ賛美歌を歌ったり、ちょっとした献金をしたり、あるいは、ちょっと葡萄酒を飲んで、パンみたいなお煎餅みたいなものをいただいたりして、それは司祭さんから…そんなことでもってまあその日は帰ったことがありますけれども、それ以外一切私は息子さん四人とも夫人とも一切顔を合わすことが何年となく…合わすことがなくなってしまいました。私はいろいろあったからまあしょうがないと、僕に会うといろいろまた近くにいて迷惑をかけるといけないと思って僕に会わないようにしているのかもしれないし、どこかに引越しされたのかもしれないなと思っていたら、やっぱりどこかに引越しをされたみたいで、それからまったく顔を合わすチャンスを失いました。どこへ移られたのか分りません。私もそのまま仕事が忙しいし、私も学校を卒業して親父が死んだので、なんとか自分のうちを保たなきゃ、親父の跡を継いで吉松のうちをなんとかしなきゃいけないということで頑張らなきゃいけない。ひとりで仕事を始めることにして、一生懸命働いて、どうやら少しずつ目鼻が立ってきたのは、やっぱりこれでもう27年に親父が亡くなりましたけども、それから先を頑張ってきたもんで、まあ仕事のこととか学校の…国鉄はもちろんもう総裁がいなくなられたんで僕はもう国鉄は諦めました。だけども、国鉄は諦めたけれども、電源開発に行こうということで、わざわざ電気工学を出たけども、親父がちょうど私が卒業のとき体が弱くて倒れていたんで、その親父の仕事を継ごうということでやったんですが、まあ下山家との交際は一切それからまったく何年というふうに途絶えてしまったんです。それほど私も気にはしていなかったんです。なにかいろいろ事情はあるんだろうなあと。しかし、それにしても私の気持ちの中には、私の家は依然として同じ住所にいるし、なにか電話の一本、年賀状の一本ぐらいは、「今、富弥君こうしてるよ、今こうだよ、社会に出て富弥君はどうしてる」というようななにか一報はあるんじゃないか、あるいはあっていいんじゃないかという気持ちでともかく何十年と過ぎてしまいました。本当に考え方によれば、私は後でまあお話しますけれども、考え方によればとってもなにか寂しかったです。なんで一言のなにか…あんなに親しく、同じ海軍の籍も…海軍にも志し、同じように理工学を志し、非常に三人組と言われたぐらいに、市岡、下山、吉松という三人組と言われたぐらいに親しい仲にもかかわらず、まったく音信不通というのはなにか考えてみれば考えてみるほど、なにか寂しい気持ちだったんですけれども、まあこちらも仕事はもう必死でしたから、まあお陰で仕事のほうは順調にいって会社を設立するまでになり、三十人ぐらいの人を雇うところまで会社も発展して、まあ新聞社の仕事をしてましたけれども。まあそういったことで…私の気持ちの中には非常に大きなわだかまりがあったし、何故こんなに私を敬遠すると言ってはおかしいかもしれませんけれども、私との連絡を遮断しているのか、またどうしてこの今の私との接触を嫌っているのか、私は信義を守って奥さんとの信義を守って新聞記者には一言もなにもしゃべらずにきて、なにもしゃべらずにきたこの信義を守った気持ちが強いだけになにか寂しいし、なにかこう…信義を破ったのならば、「なんだあの吉松って男は、せっかくうちのおふくろが自殺したってことを黙ってろっていうのに新聞記者にベラベラベラベラしゃべってうちのことをしゃべったと、なんだあいつは我々は友達だと思っていたけれども、もう本当に信義のない奴だと、また恩義を知らない男だと、あんなのとはもう絶交しろ」と、こういうんならこれはこれで私は解ります。私でもそう言うでしょう。しかし、信義を守ってずっときた男です。それにもかかわらずなんの連絡もない。非常に私は寂しい気持ちで何十年も渡りました。さて、ここで新聞を見てるといろいろ出て、ある場合には他殺だ自殺だと。で、この他殺自殺の世論というか報道は真っ二つに割れました。ひとつは朝日新聞、これは今の他殺説に傾いていきました。毎日新聞は自殺説に傾いてきました。何故そんなに二つに分かれるのかというと、やっぱり非常に五反野の轢死というのは、要するに電車に轢かれて亡くなった総裁の姿も無惨でしょうけども、しかしそれに対する疑問みたいなものがたくさんあったからだってことは、これはよく分ります。しかしですね、私はいろんな…こう…見てて、ひとつ分ったことがありました。それはこれはやはり、私はしゃべらなくて良かったんじゃないか。これは下山家にとっても私はこれしゃべらなかったことが非常に良かったんじゃないかという気持ちを非常に強くした記事がありました。それは、新聞に出ている記事で、警視庁のいわゆる事情聴取やなにかのときの一文に、下山夫人の談話として出てる記事を私は目にしました。そのとき、夫人はなんと警察でもって証言したかというと、まあ証言というよりも、そのときの記事は私は今でもはっきり覚えてますが、「私の主人は自殺をするような人ではございません」という記事でした。なにか私には自殺だと直感で私に言ったことと、しばらくたってから、いろいろ世の中の捜査が始まったり、他殺自殺の両面から捜査が始まった、その大分後になってその記事を見て、私はハタと不思議を感じました。私には「主人は自殺した」と、警察の証言では「自殺するような人ではありません」と。このふたつの食い違いが、非常にこれが大きな問題として私の心の中に強く残りました。さあ、それはあとでもってよく理解はできました。さて、そうこうしているうちに、今のその時代の背景はどんなものであったのか、これはもう戦後の昭和24年といえば、そろそろ復興が始まった当初で、まだまだ世の中が混乱をしていました。その混乱のなかで一体どういうことが行われたのか、ということをここで申し上げなければならないと思います。それは総裁を取巻く社会情勢です。まず一番初めに下山国鉄総裁は、指名したのはマッカーサー司令部です。非常に信頼が厚く、技術屋さんだし、東大の機械科を出て、非常に家柄もよろしいし、東京管理局長でもあるし、立派な人であるということの証明だと思いますが、マッカーサー司令部は国鉄の初代戦後の総裁として下山さんを指名したわけです。で、その指名して、なにかにつけては総裁…政府を抜きにして国鉄対司令部というようなことで非常に関係良く動いていたんですが、当時の日本の社会情勢が非常に混沌としていました。まず一番初めに日本の総理大臣として指名したのは、吉田茂…外務省畑の外務官僚の吉田茂さんを第一次の吉田内閣として日本の再建に当たらせたわけです。これはもちろんマッカーサー司令部の指名によって行われたわけです。その当時やはりマッカーサー司令部は、日本の再建のためには民主主義、あるいは平和主義、自由主義、そんなことを旗印にですね、日本の今までの封建主義、軍国主義そういうものを、武士道主義みたいなものをなんとかなくすためには、今の民主主義だとか平和主義だとか自由主義っていう、非常に耳当たりの良い、敗戦日本の国民に受け入れられやすいあれをどんどん政策として打ち出してきたわけです。まあ、その政策を打ち出した反動がまたすぐに現れてきちゃったわけです。それは何かというと、要するに社会主義的な共産党、まあ例えば野坂参三さんだとか、あるいは徳田球一さんとか、宮本顕治さんとか、大山郁夫さんとか、共産党の名だたる人が社会で活躍する場も与え、要するに自由に与え、平和主義のために与え、左のほうへ大きく舵を切りすぎてしまったわけですマッカーサー司令部は。その左のほうへ舵を切りすぎた証拠みたいに、第一次吉田内閣はなかなかうまくいかない。なにか国民の世論がだんだん民主主義、平和主義みたいな自由主義みたいになっていったときに、社会党、共産党が俄然その勢力を伸ばしてきました。そのために、第一次吉田内閣のすぐ次に片山内閣、社会党の片山内閣が誕生してしまいました。しかし、これでマッカーサー司令部はこれはいかんと、これは下手すると共産主義に日本国民が向いて行っちゃうぞと、せっかく日本を自分の国の味方にしようというのに、中国共産党やソ連共産党に向かわれたらえらいことになる、ということでもってレッドパージだとか、赤の追放とかなんとかで今度は逆に共産党のほうに圧力をかけだして、まあ、今の野坂参三とか徳田球一は表立った活躍ができず、地下に潜ってしまいました。そうしてその次に中間的に、すぐにまた今度はまたみんなをかき集めたような外交出身の芦田さんが、芦田均さんが芦田均内閣を作って、その次を引き受けた。それもまたなかなか政策的にマッカーサーとうまく行かなかったんでしょう、やがて解散になって、また吉田さんの登場となり、これが第二次吉田内閣、これがだいたい昭和22年から23年ぐらいにかけて、約一年ぐらい第二次吉田内閣があって、だんだんと世の中が落ち着いてきましたけども、一回左にマッカーサーが舵を切ったために、戦前にはなかった労働運動というのが盛んになった。社会運動が盛んになり、労働運動が盛んになり、労働争議も盛んになるというような時代が訪れました。この時代が訪れたことに対して、マッカーサー司令部はどうもあまり良くないということで、ここで次に総選挙をやろうと、いうことでやった結果、第三次吉田内閣が出来たときには、保守党が過半数を占めて大勝利を収めました。しかしまだ共産党は三十議席くらい残っていたと思います。そういう時代です。その今の吉田内閣…第三次吉田内閣は、ちょうど国鉄総裁が亡くなられた事件が起こったのは7月ですが、吉田内閣ができあがったのは2月です。しかし、労働争議的なものはどんどんちょっと起こりだす。そしてこれはなぜかどうもこれから大きくなりそうだと。社会主義運動が大きくなりすぎると、やはりマッカーサーのほうにとってはあまり都合が良くありません。民主主義という旗印をもっと推し進めなきゃいけない。まあどちらかといえば保守派がよろしいと、いうようなことだったときに先程申し上げたように、国鉄の首切りをマッカーサーが命じたわけです。これはもちろん吉田内閣のときです。なんとかこれを収めようとしなきゃいけない。だけども先程申し上げたように、今の国鉄の十万人の首切りは、なにも吉田内閣の経済的なものを助けたり、人件費の削減ではありません。マッカーサー司令部は、日本人が怖かったんです。十万人も戦地から帰ってきて、アメリカと我々と戦って命を捨てて闘うような勇士が、どんどん国鉄に集まったことに対する恐怖を感じたんです。その意味ではちょっと話しは飛びますが、マッカーサー司令部は、占領軍が一番初めに日本に来たときに、全く日本人にとってはちょっと馬鹿らしいと思うかもしれませんけれども、マッカーサーにとっては非常に真剣だった政策があります。ひとつは文化的なものを壊すことです。今まで日本人が築いてきて武士道精神を切る、あるいは正義あるいは信義、儒学、そういうものを打ち壊すこと。そのためにマッカーサー司令部は、歌舞伎の忠臣蔵の上演を禁止しました。これはあだ討ちをされては困るからです。あだ討ちみたいな気持ちを日本人がもつと、いずれまたアメリカに歯向かうんじゃないか、復讐にでるんじゃないか、そんな恐れからこれはもう笑い事ではなく、歌舞伎の忠臣蔵の上演は禁止されました。これは知ってる方が多いと思います。それからもうひとつは新国劇の忠臣蔵も…国定忠治、この上演も禁止されました。これはやはり国民の上に立って当時の権威、権威をもっている人間に対して自分の主張を通そうとして要するに一揆を起こすというか、暴動を起こすような主導者が現れて、それが正義みたいに思われることがマッカーサーにとってはもう怖くてしょうがなかった。これはもうこの二つを禁止しました。まったく今ではちょっと考えられませんけど事実です。それからさらに日本人の文化とか日本人の気持ちを何とか…心を失わせると言っちゃおかしいんですが、教育ももちろんうんと変化させましたけども、各小学校から二宮金次郎が各学校に全部ありましたけれども、二宮金次郎と教育勅語の奉安殿は全部撤去しました。更にですね、日本人の怖さを第二次世界大戦で嫌というほど知っているマッカーサーです、それで、私たち海軍兵学校、陸軍士官学校から復員してきた人間が国立学校へ…もちろん優秀だったわけですから、国立学校へ戻ろうとしたら、要するに陸士海兵から復員した人間、あるいは軍関係の少尉中尉とか青年将校、それの国公立学校への入校を制限しました。生徒数の一割以上は入れてはいけないと。これはもう事実です。私も事実それにあいました。そういうことでもう全てが考えられないようなマッカーサー司令官の、日本人の怖さを知ってるわけです、またまあ逆に言えば偉さも分ったかもしれません。そういうようなことで、今の首切りはこれはマッカーサー司令部の命令です。それはなぜかというと、今申し上げたように、兵隊さんが沢山集まることが怖かったんですこれは。そういうことで首を切りなさいと。決して人件費の問題でもなんでもありません。国営なんですから。今の官庁と同じです。今の官僚と同じです。全然そんなこと心配要りません。そういうことで今の命令を下したんですが、国鉄総裁はそれはもう断るわけにいかなかったわけですね、ですからこの今の、その国鉄の…(A面終わり、録音途切れる)…(B面始まり)…マッカーサーの命令に従わなきゃならない、このふたつの狭間で、総裁は悩んだことはもう間違いありません。大変な悩みを抱えられてたことはもう分かります。これは知っているのは奥さんと、下山さんの片腕だった副総裁だった後に総裁になりましたが加賀山副総裁と、私です。そういうことで、今お話を申し上げてるわけでごさいます。そういうことで、今の十万人のこの問題について、例えばの話が、国鉄の労働組合が盛んになる、国鉄総裁が我々の首を切ると、こういうことを考えていた労働組合のトップは私はいないと思います。国鉄総裁は常々、先程も申し上げたように、現場の出身だし非常に部下を想う人です。部下のために命を投げ出して、徴兵されたものが命をながらえて国鉄に戻ってくれたら、良かったねといって引き受けてみんな国鉄に戻したいわけです。その総裁がですね、労働組合の争議で首を切られるからといって労働組合員が、あるいは指導者が総裁を殺してなんになりますか。総裁殺しても次の総裁があれば、もうどうってことないんです。マッカーサー司令部にとってはそんなことはもう、全然その総裁が交代しようと交代しまいとこれはもう全然関係ありません。ましてそれを知っている労働組合員が、国鉄総裁を謀殺したり他殺するなんてのはとんでもない話です。そんなことはありえません。それほど…(音途切れる)…今までお話ししたように、マッカーサー司令部は、司令部関係あるいは占領軍関係と申しますか、その関係が総裁を謀殺したり他殺する必要はまったくなかったということです。またその必要もなかったということ。むしろ生きて、良い関係でいたかったというのがひとつ。もうひとつ、労働争議があって労働組合が怒って、総裁のことを怒って総裁を殺してしまえというような、そんなバカなことを考える労働組合ではありません。もちろんそのマッカーサー司令部の命令ということを分かった上ですが、そういうことを考えるとですね、どうしても、この問題は他殺の線じゃなく自殺の線に向かっていってしまうことになります。事実、面白いことに警視庁の動きがあります。警視庁はこの問題を始めは他殺という線で捜査を開始しました。当然のことながら殺人だろうということで、まさか自殺じゃないだろうというようなことで、まあ両面からかもしれませんが捜査を開始しました。もちろん担当は捜査一課です。捜査一課の担当の刑事が何人もこれに携わって、まあ8人か9人くらい携わったと思いますが、どこから見ても他殺の線が出てこない、他殺という証明ができない。このこと自体が、当時の捜査一課の結論として刑事部長に報告をしたわけです。で、捜査一課はこれは他殺ってことはちょっとありえませんよというような報告だったんでしょうと。それじゃ自殺の線はあるのかというとそれは分りませんと。自殺の線があるのかどうかについては分りませんが…自殺の線もちょっとはっきりしませんと。というようなところへもってきて警視庁の上層部からひとつの指令がおりました。これは警視庁が態度が変ったことが明らかです。警視庁の上層部が捜査一課(の結論)は分ったと、じゃあもう一回他殺じゃないかという線をもう一回別の角度から調べなおしてくれということで、捜査二課に依頼しました。捜査二課は政治犯とか知能犯係ですが、ここに捜査を依頼しました。捜査二課はいろいろ調べていって、どうも他殺なんじゃないかということをだんだん固めていく一番初めの元はなんだったかというと、血液のルミノール反応です。これは警視庁捜査一課のほうは慶応大学の法医学部にルミノール反応の試験を依頼しまして、これは生きた人間がその場で汽車に轢かれて診断だと言う結論、即ち自殺という線が濃厚だという法医的な結果が出たわけです。ところが二課は慶応大学のルミノール反応をまあ信用しないのか、それでは具合が悪いということで、今度は東大の国家経営の東大の法医学部にそのルミノール反応の結果を依頼したところ、東大は全く別な、これは死んだ人間をレールに横にして何時間か経った後に殺したんだというようなルミノール反応が出たという結果を報告したわけです。そこで二課は全くこれは他殺だということでいろんなことを調べだしたんですが、これもまったくその他殺の線が出てこなくなっちゃった。そういうことでこの結果的には捜査二課も結論を出せない。これはまあ死体を轢断したものであると一応結論を出したけども、死体を…これは他殺しかありえないというような結論で終わり。片一方捜査一課は、ルミノール反応からいって、あるいは自分たちの捜査の結果からいって、これはどうしても他殺説は採れないと、他殺の線が出てこないと捜査しても。ということで自殺説。まあこういうふうにふたつが別れてしまったので、警視庁としては結論を出さないままで終わってしまい、謎ということで世の中にいろんな憶測を呼んでしまったわけです。で、これを上から指令したのは誰だろうと。これは分ります。これはひとつにはマッカーサー司令部かもしれません。なぜかというと、これを他殺にしたほうが労働組合運動を、どうも労働組合かなんか、無頼な輩が、日本人がこれを殺したんじゃないかと、総裁を殺して、首切り反対の責任者を殺したんじゃないかとしたほうが、労働争議を収めるためには、まったくもってもってこいの材料ですから、これは謀殺か他殺かなあなんてことで、発表はしないけれどもまあ裏からそんなことを考えていたことは明らかでしょう。もうひとつは、政府も同じことです。政府はなおさら吉田内閣のときにこれが起こったわけですから、内閣始まって初めて今度大きな国鉄の首切りって問題が起こったわけです。これは大変な問題に発展する可能性があったけども、総裁の他殺という、他殺説ということを貫くことによって、これは今のどうも労働組合の(誰かが)やったんじゃないか、あるいはなにか誰かアメリカの機関がやったのかもしれないし、ということで収めてしまえばですね、これはやっぱり労働運動をだんだん沈静化させるために大きな力になったと思います。もうひとつは国鉄です。国鉄の当局にしてもこれをやはり他殺ではないかというふうにやったほうが、ひとつは下山家の総裁の名誉のためでもあるし、もうひとつは国鉄の労働組合の運動も沈静化させることができると、国鉄総裁が亡くなったんだと、お前ちょっと少し労働運動控えたらどうだと、というようなことになると全部がうまく収まるとすれば、他殺説で収めることが一番無難だったわけですね。どこから見ても一番の正解です。しかし他殺説であって、他殺であるということは誰も言わない。警視庁も発表しなければ国鉄も発表しなければマッカーサー司令部も吉田内閣も発表しないわけです。できないために60年間今もってこの問題は宙ぶらりんになったという事実はあるわけです。さあ、それでは一番問題は下山家の立場にあると思います。下山家は、今の申し上げる…一番私は他人としては詳しいわけですが、下山家の構成からいって、下山家にはもちろん下山総裁と奥さんのよしさんがいたんですが、よしさんは非常に賢婦人でして、この方のお母さんは、高木子爵の奥さんです。高木子爵、そのよしさんのお父さんは高木正得子爵です。この二人の間に生まれたお嬢さんで、よし夫人は非常にしっかりした立派な学識をもった夫人でした。もちろん優しいし威張ってもいないし、私にとってはまったく優しい奥さんでした。この下山家ですが、下山家のよし夫人にとっては、非常に大きなショックが一年前にあったわけです。これはなにかというと、戦後、まあ財閥の解体とかあるいは地主の解体とかですね、地主小作の間とか、あるいは爵位の男爵子爵とか、そういうものの特権を全部剥奪するというようなことがマッカーサー司令部から命令で行われたんですが、もちろん子爵も全部取り上げられて、国家的な補助が全くなくなりました。そのために、まあ生活はそこそこされたと思いますけども、自分の待遇なり立場なりが、取り上げられた、この高木子爵にとっては晴天の霹靂であるし、生活もかかるし、まことに苦しい立場に立たされたと思いますが、そのために昭和23年に、総裁の亡くなる前年ですが、この高木子爵は首吊り自殺をして亡くなりました。これはよし夫人にとっては大変なショックだったと思います。だけどこれは人には言わず、抑えていた問題だったと思います。だけどこの翌年に今度は自分の主人を亡くしました。その主人が自殺か他殺かというような、非常になにか謎めいたことに段々と発展してしまったわけですね。この問題は、よし夫人は先程申し上げたように、警察で証言したときに、「私の主人は自殺するような人ではありません」という証言をしてるわけですね、警察で。この一言は非常に重いです。ということはですね、この下山家にとっては、要するによし夫人の両親も経済的な基盤を失い、下山家は全く基盤を失ったわけです。ところが当時の役人というか、先程も申し上げた警察官とかあるいは国営鉄道というのはみんな恩給というのがついていましたから、下山家の立場から言えば、これは要するに他殺ということで国鉄のために殉じて他殺された謀殺されたというような筋のほうが、まったく自殺でもって職場放棄という形をとられるよりも、ずっとこれは問題にならないくらいの後に響いた問題だと思います。即ち恩給は当然奥さんのところに出たと思います。それで当然付くのがですね、殉職という特別??(聞き取れず。特別手当?)も付いたと思います。それを得なければ四人の息子たちを立派に大学を出して生活をして…大学を出すことはできません。だけどもこれはよし夫人の決断であったと私は思ってます。それでそれも良かったと思います。そこで今の国鉄のよし夫人のもとに…よし夫人は、その警察で証言した以外にまったく無言のまま33年経って亡くなるまで、一言も発言を公にはなさらなかったそうです。これはもう私はやっぱりよし夫人の、もちろん新聞記事…ありませんし、沈黙を守り通したということですね。私の立場から言えば、よし夫人との約束を守ったことは大変私は今考えると良かったと思うし、息子さんたちと会ったのも、よし夫人が33年後に亡くなって、国鉄葬として高木国鉄総裁の葬儀委員長のもと、立派なお葬式が千日谷講堂でありましたけれども、これに私が出席して…葬儀委員長は高木総裁です。喪主はとすれば定彦君、俊次君、健三君、博也君、その次に私に座ってくれと言われたこの気持ちが全てを物語ったと私は思ってます。吉松君、君は黙っててくれてありがとうというか、奥さんの前で信義を守り通した気持ちはありますよ。だけども、息子さんたちも私の沈黙をじっと見守っててくれたと思います。だから親戚一同よりもずっと上席で五人目に私は座らせていただいて、よし夫人の国鉄葬に参列させていただきました。そのときも私は連絡一つ、手紙一本受け取りません。たまたま新聞を見てたときに元国鉄総裁の…初代の国鉄総裁の夫人の、よし夫人の葬儀がありますということで、新聞の死亡欄に出てまして、それが何月何日千日谷講堂ということで、それで知って私はその日飛んで行ったわけです。それで初めて、事件になって33年経って初めてこの四人に再会を果たしました。だけど、その再会を果たしたときには奥さんは亡くなっていた。まあ、非常に悲しいときの再会でしたが、しかし四人とも立派になっていたことに対して、私は満足しました。おそらくよし夫人の気持ちというか、自分の気持ちとは裏腹に「うちの主人は自殺ではありません」と言いたい気持ち、それから下山総裁の片腕だった加賀山総裁、この方は下山総裁の悩みは一番知ってたと思います。しかし、この方も自殺だと思っていてもこれは口には出さないで、いや分らないよこれはどうかな、ということ。私は私でもって沈黙を守った。この三人の沈黙が結局下山家の…国鉄をしてですね、次の国鉄の加賀山総裁をして国鉄に殉職した総裁の奥さんに対する待遇として、これを恩給という形で、今でこそ厚生年金とか誰でも年金もらえますが、当時は普通の人は貰えません。しかし、自殺と他殺、あるいは殉職か職場放棄かという岐路に立ったときに、これは今の殉職を選んだことについて、加賀山総裁の決断を私は非常に高く評価します。この人があったからこそ、国鉄はそれからずっとよし夫人を助けて、子供たちの生活費、立派に大学を出させました。この大学を出た四人は、定彦君は工大を出て国鉄に就職しました。もちろんお父さんの後に入ったのでしょう。それで国鉄の総裁室長を最後に、アドメディアセンターという広告、電車のなかで広告関係を扱う会社の専務で出て、それから社長になられました。俊次君はこれは私が始め入ろうと思った、おそらく電源開発に入られたと思います。電源開発から原発の機構に行かれて、高い地位の理事まで行かれました、間違いありません。健三君は早稲田大学を出て三菱電機に就職され、途中は三菱電機の取締役で静岡の工場長のところまで私は存じております。博也君は東京大学を卒業されて、東京海上火災に行かれて、東京海上火災の常務取締役まで行ったことは私存じてます。以上でこの四人の方は皆立派に社会に貢献され、立派に社会に尽くされ、下山総裁、よし夫人の遺志を継いで、立派な社会人として大成されました。これはもう私も含めてとても嬉しいことだと思ってます。この四人の方が今どうやっていらっしゃるかは…、おそらく今もう定年退職、私自身が定彦君と同じ82歳ですから、もう現役ではないと思います。おそらく四人とも現役ではないと思います。しかし立派な人生を送られたことに対して、私は自分の沈黙は非常に価値があったと信じてます。それからもしもここでもってもうひとつの考え方を申し上げれば、私との断絶は私を守ったんじゃないかというふうに、私自身はなにか友情を失ったような寂しい気持ちもあったけども、しかし逆に言えば、よし夫人と四人の息子さんたちが私を守ってくれたんじゃないかっていう気がしてしょうがないんです。その理由がですね、もしもあそこで私が全部いろんなことをしゃべったり、新聞社によし夫人の総裁死亡直後の直感の自殺の件をしゃべったりした場合には、これは警視庁にとっても具合が悪いし、国鉄にとっても具合が悪いし、下山家にとっても具合が悪い、また、マッカーサー司令部にとっても具合が悪い、吉田内閣にとっても具合が悪い。いわゆる全部に具合が悪いので、ひょっとすると、占領軍下である非常に雑然とした世の中に、私一人を抹殺したんじゃないかという気がしてしょうがありません。また、私は抹殺されてしまったんではないかという気がします。これは抹殺したほうがですね、結局全てがうまくいったわけです。占領軍もうまくいくし、第三次吉田内閣もうまくいくし、それから労働組合運動も収まるし、 また警視庁もなんとかかんとかいっても、まあ他殺の線が6:4で強いよってなことで、まあ世間的には収まることも警視庁としては良かったし、下山家にとっては一番良かったし、まあそういうことを考えると私自身はひょっとすると…総裁が亡くなって一、二年してこの世から抹殺されていた恐れがないとは言い切れないと思います。まあ以上のようなことでございますけれども、結果的には生き延びてこうやって真実をすべて申し上げられたことは、私は非常に良かったと思うし、またこのことでもって私は総裁がきっと喜んでいただいてると思います。「富弥君、俺の気持ちを解ってくれたなあ。俺は実はそうなんだよ。後のことについても君は黙って信義を守ってくれたなあ。息子たちも立派に世の中を渡り、世の中に貢献し、世の中に奉仕をし、立派に定年退職を迎えることができたよ。ありがとう」という言葉を天の上から私は頂いていると信じてます。以上で私のお話を終わりたいと思います。今、下山総裁は鎌倉の紫陽花で有名な紫陽花寺の境内の横の墓地に眠っていらっしゃいます。私は行ったことがあります。今紫陽花が盛んですが、紫陽花寺として有名なお庭です。この下山総裁の…私が今しばらく生き延びることができるとすれば、もう一度下山総裁のお墓に御参りをしたいと思ってます。それで全てを報告させていただきたい。必ず総裁は喜んでいただいていると信じております。以上です。

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