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鑑定結果の妥当性について

枕木とロープ小屋で採取された血痕の鑑定が進むなか、東大法医学教室では、下山氏本人のMN式およびQ式血液型をいかにして正確に把握するかという、あまりにも基本的な問題に直面していました。下山氏の血液型はAMQ型だとされていますが、それはどういういきさつで判明したのでしょうか。矢田喜美雄氏の『謀殺 下山事件』や『資料・下山事件』、『今だから話そう』等の古畑氏証言を見てみると、まず最初にメンデル遺伝学を利用し、70パーセントの確率でAMQ型であろうというところまで突き止めています。次に実際の血液を使って血液型特定を試みようとしましたが、下山氏の血液が研究室に残っておらず、総裁の腸が保存されていたガラスつぼの蓋に付いていた少量の血液(もちろん血液型検査用に保存しておいたものではありません)を用いてMN式の検査のみをおこない、M型と判定しています。Q式(注1)は血液が少なく判明しませんでした(123)。

以上の検査の流れを矢田氏や古畑氏はさも当たり前のように(ときにはむしろ誇らしげにすら)書いていますが、結局のところ下山氏の血液から直接的に得た情報はAMまでで、100%AMQとは断言できていないということです(注2)。これは恥じ入りこそすれ、胸を張って言えるようなことではありません。本来なら、司法解剖時に死体から採取した血液を用いて血液型を明らかにするのが当然だったはずだからです。では何故司法解剖がおこなわれた東大で、メンデル遺伝学による推定といった間接的な手法や、偶然残っていた血液を用いた苦肉の策といっても過言ではない検査方法を採用しなければならなかったのでしょうか。警察が見落としていた死体からの指紋検出の重要性を認識していたにもかかわらず、個人識別に指紋同様に重要な役割を果たす血液型を調べようとしなかったとは考えられません。下山氏のような「時の人」の死体に生活反応が認められないようなケースにおいてなら尚更です。実際古畑氏は、「東大では、自殺か他殺かの重大なカギを握る解剖だけに、慎重な検査をした」と述べています(4)。

解剖に立ち会った警視庁捜査一課の関口由三氏の作成した報告書によると、やはり死体からの血液採取は当然おこなわれていたようで、東大には80ccの保存血液があったということです(567)。相当量の血液が保存されていのは、司法解剖や血液型鑑定に当たった当時助手の中野繁氏(司法解剖は桑島氏の助手、血液型鑑定は中心になって担当)も認めています。80ccといえば、ABO式はもちろんのこと、MN式、Q式を含めた血液型鑑定にも十分すぎる程の量です。それにもかかわらず、線路上の血痕の鑑定作業時までに下山氏の正確な血液型が判明していなかったのはどういうことなのでしょうか。中野氏によると保存血液を使って血液型の検査をしても、ABO式とMN式のところまでがやっとでQ式になるとどうしてもうまくいかなかったというのが本当のところのようです。これが後に変則的な方法で下山氏の血液型を推定しなければならなかった理由です。検査用の血清に問題があったのではないかというのが中野氏の推論で、当時はそれを研究者各自がブタを使って作成していましたが(抗Q抗体は市販されていなかった)、中野氏によると作成が非常に難しく、またそれがQ型だけに作用するのかどうかはっきりしなかったようです(7)。

新鮮で多量の保存血液を用いてすらQ式は明らかにできなかったわけですが、枕木やロープ小屋の血痕について、矢田氏や古畑氏の言うようにMN式やQ式血液型が本当に信頼できる精度で鑑定できていたのでしょうか。血痕の血液型検査の鑑定書を作成した中野氏は、血液型判定はABO式くらいまでしかやっておらず、古畑氏の『今だから話そう』の血液型の記述については、誤記でなにかの間違いではないかと述べています(「血痕はだいぶ古いものじゃなかったですかね。…(中略)それに判定も、そんなに詳しいところこまでやらなかったと思いますよ。せいぜいA・B型程度の判定程度」)。AMQ型の血痕が見つかったとされるロープ小屋についても、中野氏は下山氏の血液型とは異なっていたとし(「ロープ小屋の血痕は、たしかに下山さんの血液型とはちがっていましたね」)、中野氏とともに検査を担当した野田金次郎氏も、ABO式までは判明したがMN式とQ式は量が少なく調べられなかったように記憶していると述べています(7)。中野氏は昭和61年のサンケイ新聞の取材に対しても「ロープ小屋に残された血液は確か、下山さんの血液型と一致しなかったと思う」と話しており、証言に一貫性が認められます(8)。

血痕の検査は警視庁でもおこなわれていましたが、検査技官の記憶も東大の法医学者のそれと大筋において一致しているようです。警視庁鑑識課の「下山事件臨場表」とによると、「A型が検出された」と記録されていますが、鑑定にあたった平嶋侃一氏は、下山氏の血液型に結びつくという結論が得られた記憶はないとしています。同じく鑑識課の北豊氏は、記憶はおぼろげながらも、血痕の量が少なかったので人血かどうか判定するのがやっとだったように思うが、臨場表にA型とあるならばそうだったのかもしれない、と述べています。ちなみに、言うまでもなく検査は主観をまじえず厳正におこなわれたものの、当時の鑑識課はほとんど全員他殺だろうと考えていたとのことです(7)。東大にせよ警視庁鑑識課にせよ、他殺説が大勢を占めているところで血液型鑑定をし、結果が思惑通り下山氏のものと一致していたなら記憶には強く残るはずではないでしょうか。

乾燥した血痕を用いたMN式およびQ式の血液型鑑定がABO式のそれに比べてはるかに困難なことは、文献的にも知られています。例えば、古畑氏の次々代の東大法医学教室教授の三木敏行氏は、事件当時より格段に鑑定方法や技術が進化していた1967年に雑誌『臨床病理』で「血痕のM抗原の有無の判定は中々困難で、余程はっきりした実験成績が得られない限り、判定を保留したほうが良いだろう。その他の血液型(管理人注、ABO式血液型を除くQ式血液型などのこと)については、検査成績の再現性に難点があり、証拠として取り上げるのは今のところ無理であろう」と述べています(9)。既に述べたように、中野氏は事件当時抗体を作るのに大変苦労したということですが、抗原の変性という点でもMN式やQ式血液型の鑑定は難しいようです。三木論文より更に新しい文献でも同様に「血痕の血液型判定は、生の血液における血液型検査のように多種類の血液型が判定できるわけではない。血痕から判定できるのは主としてABO式血液型であって、MN式、Rh式をはじめとして、その他の血液型の判定には、ABO式に比べて多量の血痕が必要で、(最低20mg以上)、検出可能期間もきわめて短く数ヶ月以内とされている。さらに抗M、抗N抗体のようにcross reactionがあったり、判定結果が必ずしも再現性を示さない」(1976年)(10)、「血液が古くなったり、着衣に付着して血球の形態を失うと、ABO式血液型を例外にすれば型検査は困難になる」(1998年)(11)、「ABO式血液型の吸着試験においては約3mgの血痕を必要とするが、ABO式以外の血痕検査はそれより多量の血痕を必要とし、新鮮血痕でなければ血液型の検出は難しい」(2006年)(12)といった記述が認められます。昭和24年当時はこれらの著作にある記述よりも、当然より多くの量の血痕が必要だったでしょう。

また一般的に血痕からの血液型鑑定は、血痕の保存状態が良く新鮮であることが大前提とされています。正確で信頼性の高い結果を得るには、血痕を「冷暗所に保存」するのが原則なのです(1314)。五反野の轢断地点上手で発見された血痕群は、矢田氏が述べるように「枕木は栗の木であり、タンニンをふくんでいる上に、防腐剤のコールタールなどがしみ込んでおり、走る列車が落す車軸油の類がその上をおおい、さらに土ほこりが血液にまじっている」(15)という極めて汚染度の高い血痕だった上に、それらが枕木に付着したのが7月5日から6日にかけてだったと仮定しても、少なくとも3週間近く真夏の日差し、雨、温度、湿度に晒されていたことになります。これは考えうる条件のうち最悪に近いといっても過言ではないでしょう。血痕からの正確な血液型検出可能期間も、室内に放置された血痕とは比較にならないほど短くなっているものと思われます。これほど状態の悪い血痕から得られた結果を絶対視するのは危険ではないでしょうか。現場のルミノール検査の直後に、東大法医学教室講師だった桑島氏が「しかし燐光実験によると二、三年前の古い血痕まで検出されるから鉄橋−綾瀬間にここ数年飛びこみ自殺が何件あったか調査する必要がある。この血痕の中に下山氏のものと同一のものがあるか否かは警視庁鑑識課が鑑定するが、これによって他、自殺が裏づけられるということはあるまい」と冷淡なコメントをしているのも頷けるというものです(16)。

東大と警視庁の血液型鑑定に従事した関係者たちの証言、MN式およびQ式血液型鑑定の実際、そして五反野の血痕群の置かれていた状態を考慮すると、「謎の血痕」の鑑定結果のうち、ある程度信頼がおけるのはせいぜいABO式血液型まで、ということになりそうです。日本人の約4割がA型であることや血痕は相当古いものだったという証言も併せると、轢断地点上手の血痕に他殺説論者が主張するような特別な意味を付与する必然性はかなり弱くなるといえるでしょう。下山事件は裁判になっていないため、血痕の血液型鑑定の結果も他の専門家の批判的評価に晒されることはありませんでした。もし裁判のような事態になったと仮定して、矢田氏などが著書で声高に主張するような結果が、批判もなくそのまま受け入れられるとは当サイト管理人には到底思えません。それどころか相当強い否定的見解を示されたはずだと考えます。

参考文献

1:矢田喜美雄(2004) 『謀殺 下山事件』 新風舎(新風舎文庫)、p.176-180

2:下山事件研究会編(1969) 『資料・下山事件』 みすず書房、p.214-215、p.506

3:古畑種基(1959) 『法医学秘話 今だから話そう』 中央公論社、p.227、p.234

4:古畑種基(1958) 『法医学の話』 岩波書店(岩波新書)、p.20

5:関口由三(1970) 『真実を追う 下山事件捜査官の記録』 サンケイ新聞社、p.46

6:下山事件研究会編(1969) 『資料・下山事件』 みすず書房、p.293

7:佐藤一(1976) 『下山事件全研究』 時事通信社、p.414-416、p.421-423

8:サンケイ新聞 「再検証下山事件3」 1986年1月9日付

9:三木敏行(1967) 「血液型の法医学的応用」、『臨床病理』臨時増刊特集14、p.88-99、日本臨床病理学会

10:船尾忠孝(1976) 『法医学入門』 朝倉書店、p.141

11:勾坂馨(1998) 『個人識別』 中央公論社(中公新書)、p.47

12:石津日出雄編(2006) 『標準法医学・医事法 第6版』 医学書院、p.325

13:松倉豊治(1976) 『改訂捜査法医学』 東京法令出版株式会社、p.20

14:北浜睦夫(1980) 『捜査のための法医学』 令文社、p.318

15:矢田喜美雄(1951) 「下山総裁の血の謎」、『中央公論』、1951年1月号

16:読売新聞 1949年7月28日付

17:矢田喜美雄(1958) 「下山事件、記者日記」、『週刊朝日』奉仕版、1958年5月14日号

注釈

1:Q式血液型はその後独立した遺伝形質とは認められなくなり、現在ではP式血液型と同じだとされています。

2:東大法医学教室は下山氏の血液型を検査するため、警視庁から取り寄せた下山氏の衣類も調べていますが、矢田喜美雄氏は『謀殺 下山事件』で「衣類を調べてみたが、目ぼしい血痕らしいものや肉片はほとんどみつからなかった。当然、血がついていると考えられた排障器の当たったと思われる上着の肩の部分にも血痕はなかった。あまりにもふしぎなことなので、念のため暗室に衣類を持ち込み、ルミノールを噴霧してみたがこれにも蛍光反応はまったくなかったのである」と述べており、その試みは不首尾に終わったとされています(1)。しかしながらその矢田氏は、昭和26年1月号の中央公論(15)で「智恵をしぼったギリギリのところで思いついたのは、東京地検は下山氏が事件当時着ていた服を証拠品として保管していることだった。F検事にF教授が電話をすると、次の日にはボロの衣類がとどけられた。そのハダ着の一部に轢かれた時ついた肉の一部が固形してついているのを微温湯で浸出させた。これから三日後N助手の手でついにMとQの両方が検出され、家族推定で得た七十五%のA型のM、Qがやはり正しかったことを立証したのである」、昭和33年5月14日号「週刊朝日」(奉仕版)(17)で「八月三十日 緊張した一日だった。朝のうち、警視庁からとりよせた衣類のハダ着の肉片からAとQが出て、臓器片の乾いたところではAとMが出た。二つを合わせると下山さんはA、M、Q型で、さきの一族採血の推定は正確だったことが証明された」、『資料・下山事件』(2)で「(衣類から)幸運なことに、かわいた数片の肉片がみつかり、とうとうそれからAMQ型を検出して、最終的に下山さんの血液型を確定することが出来たわけです」、とそれぞれ『謀殺 下山事件』とは矛盾する内容を述べているのです。どちらが本当なのか不明ですが、実際のところ衣類から血液型が鑑定できたかできなかったかに関係なく、常套手段である死体からの血液による検査が上手くいかなかった以上、枕木上血痕の鑑定結果への疑問が払拭できないことや、衣服を用いた検査が苦肉の策だったことに変わりはありません。しかしながら、これは法医学論争カテゴリで主に問題になってくることですが、中央公論と週刊朝日の矢田氏の記事は、他殺説論者が好んで主張する失血死説のひとつの根拠、「衣服に血液がまったく付着していないかった」という証言の信憑性に、1)肉片が付着しているような衣類にルミノール(1〜2万倍薄めた血液でも検出する)を噴霧して発光が皆無とは考えにくい、2)矢田氏の証言はあまりに首尾一貫性を欠いている(細かいところでは衣服が東大に到着した日付も『謀殺 下山事件』と週刊朝日の記事では異なります)、というふたつの理由で疑問を投げかけるものです。確かに衣類に血が付着していなかったと証言しているのは新聞記者の矢田氏だけでなく、法医学教室教授の古畑氏もいます(2)。しかし、下山氏の衣服に関して古畑氏は「上着もワイシャツもほころび一つなかった」(3)という明らかに事実と食い違う証言を堂々としていることなどを考慮すると、衣服に関する古畑氏の証言も鵜呑みにするわけにはいかないともいえます。麻生幾氏の著作や、金井岩雄氏の証言で明らかなように、血液や肉片のこびり付いた衣服は東大法医学教室に届く以前、警視庁で洗剤で洗われ天日干しされています。轢断された死体が身にまとっていたにしては意外なほどに綺麗な衣服を見て、東大関係者が驚き不思議に思ったのは容易に想像がつきますが、肉眼的検査上はともかくルミノールでさえ血痕を検出できなかったという話に説得力があるとは思えません。そもそも、失血死説は桑島氏による司法解剖の結果や、列車底部のおびただしい血痕によって直接・間接的に否定されているのです。

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