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731部隊、チフス、下山事件

731部隊(正式名は関東軍防疫給水部本部)といえば、第二次世界大戦中の日本軍の暗部ともいうべき存在として知られており、その任務や性質について未解明の問題が数多く残されています。柴田哲孝氏は、この謎の多い731部隊と下山事件との関連を初めて推理しましたが、それは共同通信の記者だった斎藤茂男氏による情報を土台としています。斎藤氏自身は、731部隊と下山事件が繋がっている可能性を指摘しておらず、またそう考えてもいなかったと思われますが、まず、斎藤氏の著書『夢追い人よ』から、柴田氏が注目した箇所を引用したいと思います(諸永裕司氏の『葬られた夏(朝日文庫版)』p264-268にも同じ情報に関する記述があります)。

そればかりか地検は、現場をさまよった人物は自殺を偽装するために、計画者が仕立てた替え玉ではなかったかとみて、七、八月にかけ執拗に替え玉捜査を続けていた。

捜査対象に浮かんだのは、五日夜、轢断点に近い常磐線綾瀬駅のひとつ先の亀有駅から、午後八時四十五分初上野行き電車に乗った“下山総裁らしき人物”だった。この男には同伴者とみられる青年(当時二十四歳)がついていた。たまたまこの連れの青年と顔見知りだった老婆が、偶然同じ電車に乗り合わせたことから捜査陣に情報が入ったのだった。

老婆によると、乗り合わせた上り電車はかなり空席があって、青年と向かい合って座っていた。青年の隣に問題の人物が座っていたのだが、上野に着いたころ気がつくとすでに二人とも姿が見えず、日暮里で降りたのではなかったかというのだった。

調べてみると、青年は国鉄田端機関区に勤務する機関助手で国労民同の活動家だった。同夜亀有駅改札口で顔見知りの駅員と声をかわし「これから田畑機関区へふろに入りに行く」といっていたが、なぜか入浴には現われていなかった。しかも四日と五日は欠勤していたこともわかり、本格的な追求がはじまった。ところが七月二十八日になると、青年は突然、パラチフスで病院に入院、隔離され、捜査の手が届かなくなってしまった。

ようやく約一ヵ月後の八月二十二日、退院した青年を追及した。「田端機関区へ入浴に行くつもりだったが気が変わって、愛人M子(当時二十四歳)のいる浅草の店に遊びに行った」といい、浅草を調べると該当する店はなく、M子は有楽町のある劇場の地下の食堂にいることがわかった。その店で青年はM子に十万近い金を渡した疑いまであることが浮かんで、捜査は拍車がかかったが、結局青年は“同伴者”がいたことを否定し続け“下山総裁らしき人物”追求の手掛かりはここで切れてしまった。

だが、このケースがいまだに不審がられているのは、青年の入院した原因が普通のチフス菌によるものではなくて、培養菌だったという疑いがあるからだ。捜査の手ののびたことを知った計画者が、青年を一時社会から遮断するために工作したのではなかったかと地検はみた。菌の潜伏期間から逆算して、感染は七月七日〜九日の間とまで推定された。もしこれが事実だとすると、替え玉は轢断点付近から日没とともに姿を消し、もっとも近い綾瀬駅を避けてひとつ先の亀有駅から都心へ戻ったとも考えられるし、あるいは、亀有駅近くに計画者たちの使う「場所」があったのかもしれない。そして、青年は替え玉の移動を補佐する役を、振り当てられていたのかもしれない。

一見して不自然な点がいくつか挙げられます。まず、7月5日の夜9時近くというと、既に下山総裁行方不明のニュースは広まっていた頃で、その時間帯に下山氏そっくりに変装した替え玉が、五反野から比較的近い場所から鉄道という公共交通機関を使って移動するという奇妙さです。替え玉説(他殺説)が想定している、背後の組織の大きさや用意周到さを考慮すると、より一層アンバランスさが目立ちます。もうひとつは、午後8時45分以降にも五反野では下山氏らしき紳士が目撃されているという点です(もっとも、替え玉説が絶対という立場では、替え玉は2人いたのではないか、という発想になるようですが)。

しかし、ここで主に問題にしたいのは青年が罹った感染症に関する記述です。まず、斎藤氏は青年がチフス菌に感染してパラチフスを発症した、と書いていますが、チフス菌とパラチフス菌は似た症状を引き起こしますが、別種の菌です。「パラチフスを発症した」とあるので、とりあえずパラチフス菌に感染したと仮定するとして、感染したのは「七月七日〜九日」と3日間に限定していますが、潜伏期間だけからこれほど狭い幅で感染日を推定するのは不可能と思われます(一般的には7日〜14日)。また、感染した菌が培養されたものであると示されるには、培養菌と青年が感染した菌の株が同じだった、ということが示されなければなりませんが、昭和24年当時にこれを証明できる医学的方法はこの世に存在しなかったはずです。ある菌が、どの種の菌なのかを明らかにする方法はもちろん当時でもありましたが、同一種のある菌Aと菌Bの株が同じであることを確実に証明する方法は存在しなかったのです。また、症状を手掛りに、菌の株を推定するという方法は、あり得なくはないかもしれませんが、そういった場合その推定の妥当性は一般的に弱いものになると思われます。そもそも、チフス菌やパラチフス菌によるチフス性疾患は、昭和24年当時減少傾向にあったとはいえ、まだ日本において一般的な感染症でした。その比較的ありふれた感染症に罹った青年から検出された菌を、一体誰がどういう意図で徹底的に調べたのか、これもよく考えれば不可解です。総合的に考えて、「青年の入院した原因が普通のチフス菌によるものではなくて、培養菌だったという疑いがあるからだ」という記述は眉唾だと結論せざるをえません。

以上の斎藤茂男氏による「培養菌」情報から、731部隊の関与を直感した柴田哲孝氏は、「旧七三一部隊員」で「名前も、イニシャルも、戦後の経歴についても明かすことはできない」という、元731部隊員A氏(1999年9月時点で82歳)へのインタビューを敢行しています(『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p465-475)。素性の明らかでないA氏ですが、「終戦時、チフス菌を日本に持ち込んだ。私もやった。菌は訓練を受けたものにしか扱えない」、「七三一部隊の第一部(細菌研究部)に所属」と述べていること、また、年齢からいって1938・39および42〜45年に部隊に配属された14、15歳の少年隊員(『細菌線部隊』七三一研究会編、晩聲社、p347)ではなということから、彼は医学関係者、細菌学の専門家として731部隊に所属していたと考えてよいと思います。また、だからこそ柴田氏も接触をこころみたのでしょう。

しかしながら、プロフェッショナルであるはずのA氏の発言にはいくつかの看過できない疑点があるのです。例えば、「そのチフス菌は、間違いなく培養菌だったのですか?」というA氏の問いに柴田氏が間違いないと答えると、それをすんなりと信じて「それは、やはり、七三一部隊ですね。一〇〇パーセント、そうですよ」と述べている点です。既に述べたように、当時は株を確実に特定する方法は存在しませんでした。A氏が本当に医学関係者ならば、「あの時代にどうして培養菌だとわかったのか」とまず聞くはずですし、柴田氏の返答を懐疑心の欠片もみせず鵜呑みにして「一〇〇パーセント」の太鼓判を押すのはありえないのです。次に、柴田氏が最初に「突然パラチフスを発症」と書いてあることから、A氏にも当然そのように説明したはずですが、なぜかA氏は「チフス菌」について語っている点です。チフス菌とパラチフス菌を区別できない細菌学者がいるでしょうか? ジャーナリストの斎藤氏と小説家の柴田氏がチフス菌とパラチフス菌を混同するのはある程度しかたないとはいえ、あたかも彼らに習うかのように専門家であるはずのA氏も同じ間違いを犯しているのは非常に興味深いといえます。A氏の最もおかしな発言は、昭和24年当時「チフスの培養菌というものは、世界じゅうに七三一部隊が作ったものの他には存在しなかったのですよ。作ることもできなかったし、もしあったとしても使うこともできなかったでしょう」というものです。培養というのは細菌学の最も基本的な手続きのひとつであって(チフス菌が初めて分離培養されたのは1884年。ちなみに腸チフスワクチンが作られたのが1897年)、しかも腸チフスやパラチフスのような一般的な感染症の原因菌の培養菌は、「七三一部隊が作ったものの他には存在しなかった」どころか、それこそ世界中の主要な医療機関や研究機関に培養・保存されていたはずです。実際に昭和25年に出版された細菌学の教科書には、チフス菌及びパラチフス菌培養のための培地の作り方も明記してありますし、「普通培地に好気的によく発育する(p361)」、「普通培地によく発育し…(p371)」という記述がそれぞれの菌についてあります(『戸田新細菌学 訂正第8版』 戸田忠雄著 南山堂 昭和25年)。技術的にも制度的にも、731部隊しか作れないということはありえないのです。

このように不可解な点の多すぎるA氏の発言内容を考えると、彼は本当に731部隊の隊員だったのか、はたしてこのインタビューに信憑性や価値はあるのか、という疑問を抱かざるをえません。

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