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ロイド眼鏡とゴム引シート

『下山事件 最後の証言』の著者、柴田哲孝氏は、轢断現場上手の血痕の分布から推定される死体運搬経路や運搬方法に関して、従来の矢田喜美雄氏による「定説」とは異なる見解を披露しています。柴田氏は、プロである犯人グループが、いくら深夜だとはいえ裸のままの死体を抱えて何百メートルも線路上を歩くはずはなく、死体をゴム袋に入れてガード下の轢断現場まで運んだはずだという推理です。現場到着後死体をゴム袋から出して轢断現場に横たえた後、空のゴム袋を手に荒川土手方面に線路上を歩いていった際に犯人らが残していったのが、点々と続く血痕だと考えれば辻褄が合うのだと主張しています(『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p379-382)。

その方法でも一応血痕の分布を説明できないことはないという意味においては、確かに辻褄は合ってはいるでしょうが、矢田氏の説と比べて特に優れているとは、本サイト管理人には思われません。しかも、ゴム袋を使用したという着想の元になったのは、李中煥の証言と彼が作ったという、下山氏が黒いゴム袋に入れられている合成写真でした。注意深く読んでもそれ以外には理由らしい理由は書かれていません。しかし、柴田氏は佐藤一氏の『下山事件全研究』で取り上げられている当時の新聞から、自説を裏付けるような記事(見出しは「死体を包んだ? 天幕の布・西新井現場付近のドブ川から」。読売新聞、昭和24年7月11日)を発見します。記事の内容は、天幕とネルが末広旅館前のドブ川にあがったが何者かがそれを持ち去ってしまい、警察が捜査を開始した、というものです(『下山事件全研究』p74-75)。佐藤氏も述べていますが、現場近くではなく1キロ近くも離れた、しかも問題となっている末広旅館の前のドブ川から見つかったというのは、話ができすぎていますし、もし柴田氏の推理が正しいなら、用意周到なはずの犯人らは死体を置いた後で、不用意に現場近くに血まみれの袋を捨てたというのでしょうか。また、そう仮定したとしても、末広旅館前に通じるドブ川に架かる沼田橋下には水門があったため、天幕がそこを通過できた可能性は極めて低いのです(『下山事件 謀略論の歴史』p24-25)。

天幕の拾い主も翌日にはあっさり見つかり、捜査は打ち切りとなりましたが(『下山事件全研究』p86、90、95)、柴田氏が注目したのはシートに包んであったロイド眼鏡でした。言うまでもなく、下山氏のロイド眼鏡だったのではないかというストレートな推理です。当時眼鏡といえば多くがロイド型だったことを考慮すれば、袋に包まれていたのが下山氏のものだと推理するのは必然性がなさ過ぎるといえます。警察が強引にゴム引シートの捜査を打ち切ってしまった、という記述も特に根拠が示されているわけでもなく、柴田氏がそう書いているだけです。五反野の現場には他殺情報に飢えた新聞記者も多数いたわけですが、もし警察が不自然な捜査の打ち切りをしたらここぞとばかりに批判したことでしょう。しかし、当時の新聞にそのような記事はひとつもありません。そもそも死体がゴム袋に入れられて運搬されたのではないか、というのは柴田氏自身も認めているように「思いつき」に過ぎず、しかも李中煥の情報がある程度正しいという認識が前提になっています。李中煥の証言は布施検事が自ら調べ、嘘だという判定を下されていますが、柴田氏はそれをプロパガンダと見なしているため、嘘の中に一定の真実が紛れ込んでいるはずだとしています(『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p490)。柴田氏流のプロパガンダの判定法及び定義は、既に「プロパガンダと真実と嘘」で述べたとおりです。

ところで、柴田氏は自著で引用する際に省略してしまっていますが(『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p383)、ロイド眼鏡のほかに、キナ鉄ぶどう酒ビンや割れ目のはいった象牙のパイプなどが白ネルとともにゴム引シートに包んであったそうです。省略されたのは、「そのほかにも、キナ鉄ぶどう酒ビンや割れ目のはいった象牙のパイプなどがあり、」という非常に短い文章であり、推理に邪魔なものは無かったことにしてしまおうという意図以外に、省略した理由は本サイト管理人には思いつきません。このゴム引シートのエピソードは、柴田氏が602頁に及ぶ自著で唯一『下山事件全研究』を引用している箇所だというのも、なかなか興味深いところです。なお、『資料・下山事件』所収の下山白書では、ゴム引シートについて「古く汚れており、お産の後始末をするために布に包んで捨てたものと認められる」と簡素に報告されています(p376)。

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