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『「死体」を読む』

『「死体」を読む』、上野正彦(著)、平成20年(2008年)、新潮文庫

本書は単行本『「藪の中」の死体』(新潮社)の文庫版。「昭和史最大の謎の死体 矢田喜美雄『謀殺 下山事件』の轢死事件に挑む」という章が収められています。著者は元東京都監察医務院院長の上野正彦氏。上野氏は非常に数多くの法医学の啓蒙書を執筆されていますし、テレビや雑誌などのメディアへの露出頻度も高いのでご存知の方も多いかと思います。

さて、内容はというと、率直に言えば管理人としてはがっかりさせられました。というのは、法医学的に分析しようとする私にとっては、少しでも死体所見などの医学的情報が欲しいのである(p194)と述べ資料不足を嘆く著者の上野氏ですが、本書を読む限り、法医学に関して主に参考にしたのは、どうやら矢田喜美雄氏の『謀殺 下山事件』と、古畑種基氏の『今だから話そう』だけのようだからです。少なくとも、解剖所見を詳述している『下山事件全研究』、『資料・下山事件』、さらに上野氏の同業者の法医学者錫谷徹氏による『死の法医学』を読んでいないことは確かなように思われます。資料不足を嘆きつつも、限られた情報から上野氏は他殺の結論を導き出していますが、失血死説に関しては「死体から滴り落ちたと思われる血痕が線路上に多数あった(よって死体運搬時には体内に血液は十分にあった)」、「血抜きのような手の込んだ殺害方法を犯人が採用するはずがない」といった理由でこれを退けています。失血死説を否定するために列挙されたこれらの根拠を見ただけでも、『資料・下山事件』等の文献に納められている桑島直樹氏の証言にまったく目を通していないことが明白です。また、上野氏は下山氏の上着とワイシャツにはほころびひとつなかったと考えているようですが、『謀殺 下山事件』にはそれらが破れていたことがはっきりと記してあり、手元にある資料のなかの法医学的判断に直結するような部分に関してさえも、それほど注意深く読んでいないのではないかという疑問が湧いてます。それに加え、この章には純粋に法医学に的を絞った部分が非常に少ない割に、李中煥、5.19下山缶、目撃情報、怪電話、下山氏の失踪直前の奇行、当時の国鉄労組、などの下山事件そのものに関する紹介が冗長といえるほど多く、全体としてあくまで「読み物」としては面白いものの、果たして法医学者がわざわざ書かなくてはならなかったものなのかというと疑問です。なお、この本の中で上野氏は轢死と脂肪栓塞の関係について言及していますが、それについては後々このサイトの「法医学論争」のカテゴリで扱う予定でいます。

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