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東武伊勢崎線と死体運搬

柴田哲孝氏は『下山事件 最後の証言』で、亜細亜産業が自由に使えたはずだという東武伊勢崎線の列車から下山氏の死体が投下された可能性を指摘しています(増補完全版p378)。そしてその場合には、死体が運び込まれたのは北千住か五反野、もしくは小菅だろうと推理しています(p382)。

柴田氏はなぜか言及していませんが、下山白書に東武伊勢崎線の現場通過時刻についての情報があるので見てみると(『資料・下山事件』p425)、下り列車で一番遅い時間にガードを通過した列車が午後9時49分となっていますから、少し早すぎると考えられます。上り列車は午後11時から11時47分の最終電車までに計6本の列車が現場を通過しているので、もし死体運搬に使われたのだとしたら上り列車ではないでしょうか。とはいえこれらは普通列車なので、死体の運搬や投下が可能なのかというと疑問です。また、列車からの投下という方法は、極めて短い通過時中に一般人がその周辺にいる可能性を排除できないため、犯行グループにとって不確定要素が大きすぎる方法だといえます。

柴田氏は、誰も東武線に注意を向けなかったことを不思議がっていますが、警察が東武伊勢崎線の列車の現場通過時間や運転者、車掌の氏名を把握していたということは、東武線が関与する可能性を考慮し、ある程度調べてシロと判断していたということでしょう。実際、7月21日の第1回目の公式発表では、堀崎捜査一課長が、東武線列車も調べたが特に新事実はなかったと述べています。また、下山氏がまず最初に東武線列車にはねられ、その後落下してまた国鉄の列車に轢断された可能性も警察は考えていたようで、東武線列車を捜査の対象外に置いてはいませんでした(『下山事件全研究』p152、184)。下山白書にも東武線列車やその乗務員を調べた結果、「発見列車、轢断列車以外に死体を運搬して現場に降したと思われる電車、貨物列車は乗務員駅員其他関係者の取調べにより事実発見されない」と記されています(『資料・下山事件』p378-379)。

なお、柴田氏が推理に含めている小菅駅についてですが、大正13年10月1日開業、その後昭和20年8月1日〜25年11月14日までの約5年間、戦争末期の人員不足、乗降客の減少、経費削減等を理由に閉鎖となっています(本サイト管理人調べ)。当時の新聞、例えば昭和24年7月8日付の朝日新聞掲載の五反野現場付近の地図にも「元小菅駅」と記されています。矢板玄氏なら当時閉鎖中の小菅駅でさえ使用できたという考えなのかもしれませんが、あまり現実的な推理には思われません。

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