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小説および映画『黒い潮』

『黒い潮』、井上靖(著)、昭和27年(1952年)、角川文庫

まずは小説から。下山事件の翌年、1950年(昭和25年)出版の『黒い潮』は下山事件自殺説報道を題材にはしていますが、著者の井上靖氏も述べているようにテーマは自殺説の主張ではありません。「真実」とはなにか、「真実を追う」ということはなにか、を事件を取材する記者の生き様や思いを織り交ぜながら描くことに主眼が置かれています。ですから極端な話、この小説における自殺説と他殺説の位置が逆になってしまっても物語としては十分成立すると思います。

主人公はK新聞社社会部の速水卓夫記者(平正一氏がモデルとされる)。派手さはなく、ややもすると影の薄い印象を与えがちですが、粘り強く執拗に仕事を追いかける、いぶし銀的な40過ぎの新聞記者として描かれています。ライバル紙が他殺説報道を憶測を交え派手に展開する中、速水記者は中立の立場を守り、憶測記事を一切排除した紙面づくりに徹しますが、センセーショナルな他紙の紙面に比べるとK紙は精彩や面白みに欠けるだけでなく、社の方針や読者のニーズともずれてしまっているのは確かでした。社内外から責められつつも速水記者が頑なに自らの報道方針を固持したのは、16年前に彼の妻が浮気相手の若手歌手とともに海に身投げした事件による深い傷、つまり興味本位の言葉による心中事件報道によって、世間の好奇の眼に晒されたという辛い経験が原因でした。その世間の眼は速水記者にとって憎悪の対象であり、「真実とは無縁で、そのくせそれを押し包み流してしまう傲岸などす黒い大きい流れ」、すなわち「黒い潮」にほかなりません。彼は下山事件報道にもその異様な黒い潮のうねりを見て取ったのです。

その後速水記者の所属するK新聞は毎日新聞がそうだったように、警視庁自殺断定発表の誤報によって苦境に立たされますが、ここから小説『黒い潮』は独自のストーリー展開をたどり、その後しばらくして警視庁があらためて自殺断定発表をするという情報がもたらされます。この一報にK新聞社会部は息を吹き返したように活気付き、「結局は女関係じゃないのかな」、「あれだけの仕事をするには性格が弱かったんだ」、「下山の自殺の真因は、俺の書いているとおりだ」と同僚記者たちは興奮気味に議論を始めますが、速水記者は冷めた目で彼らを見やりながら「下山の自殺の原因について、つべこべ言うなよ。死んだ原因なんて、死んだ人間しか、判っちゃいないんだから」、「下山の気持なんか、下山しか知っちゃあいないんだ。他の者に判って堪るか! 死者に対する冒涜はよせ!」と吐き捨てるように言って場の空気を一変させます。同じ目標に向けて共に頑張ってきた仲間たちの内にもまた、自分が憎悪する対象の片鱗を垣間見てしまったのでしょう。ここに至って速水記者は自分が下山事件を通して取り組んで来たものが、「結局は下山総裁の死をめぐる問題ではなく、自分が持った遠い過去の一つの問題――二十歳の若い妻の死の問題」、「(妻が)死ぬ最後の瞬間まで自分を愛していたという、自分だけが抱きしめ、抱きしめていた一個の真実」であることに今更のように思い当たるのでした。その「真実」が彼の心の中に存在する限り、一時は真剣に考えた、彼を想い慕う美しい女性との再婚もやはり自ら諦めざるをえなくなる……というところで物語は終わります。

この小説のキーワードはやはり「真実」だろうと思いますが、著者の井上靖氏は、「一体新聞記者で長いあいだメシを食っていると、事実を客観的に軽く書いてゆく職人カタギに堕すか、事実のもっている真実は人間わざではちょっと探り出せないことが経験的にわかってゆくおそろしさに気づいてゆくかの分れみちがかならずやってくると思う。… (中略)私が『黒い潮』に書いた「速水」という新聞記者は良識が真実をみつけ出すというオプティミズムには加担できないで、新聞記者としてそのような限界を越えなければ真実にぶち当れないと内心つよく考えている姿を書こうとした。新聞記者ならば、そういう限界を越えてはならないと私は思う。そしてそれを越えなければ真実はみつけ出せないのだとも思う。ここに新聞の限界もあり、新聞記者の限界もあろう」と述べています。新聞記者にかかわらず「真実」には他人はそう簡単に踏み込めない、また踏み込むべきでもないのでしょう。その真実を呑み込む黒い潮を生み出す装置として描かれているのがセンセーショナルな憶測報道ですが、松本サリン事件等でマスコミが何をしてきたかを思いおこしてみれば、この作品が今も変らない普遍的な題材を扱っていることが分かります。ただ、これはマスコミのみの問題ではなく、同時に報道を受け取る我々側の問題でもあるかもしれませんが。

井上靖氏は、毎日新聞社に10年ほど記者として勤務していますが、下山事件報道でデスクを務めた平正一氏とは直接の面識はありませんでした。小説執筆の準備に際しても、事件当時社会部長だった黒崎貞治郎氏などには取材していますが、平氏には「会わないほうが主人公を自由に描ける」という理由で面会を求めなかったということです。なお、主人公速水記者の妻の心中事件というエピソードに関してですが、私は平氏にこのような過去はなかったのではないかと思います。井上靖氏は平氏だけでなく数人の記者のクセや態度を借りて速水というキャラクターを作ったと述べています。

次に映画『黒い潮』について。俳優の山村聰氏が監督兼主演をこなしています。映画『黒い潮』はストーリーを始め人物名、新聞社名など若干の変更があります。まず最初に国鉄総裁が列車に飛び込んで自殺する、小説にはないシーンから映画は始まりますが、これについて原作者の井上靖氏は「作品の主題を強く前面に押し出すために、映画化の場合、こうした仮説的手法が必要であったと思うし、またそれが賢明であったと思う。これによって、誰にも知られず、一つの真実がどこかに厳として坐っているという作品の主題は、少しも傷つけられていない」と述べています。また、上に述べたように小説では警視庁自殺断定発表が再度おこなわれる、というストーリーでしたが、映画ではそのような展開はなく、誤報をした時点で社会部は懲罰人事でバラバラになって終わります。

主題および基本的なストーリーは小説と同じなので以下に雑感を。興味深かったのはやはり1954年と下山事件発生からそれほど時間を経ずに製作された映画であるために、今日の日本との世相、習慣、風俗等の違いは見ていて非常に興味深いものがありました。例えば新聞社の編集部内の氷柱。クーラーのない当時、夏には必需品だったのかもしれません。記者たちは氷柱の周りに集まって触ったり、氷に付けて冷やしたタオルで顔を拭ったりして暑さをしのいでいます。また、再婚相手として意識していた女性(津島恵子氏が演じています)を何時間も料亭に待たせたにもかかわらず、約束に遅れてきた速水記者がろくに謝りもしないなど、今の男性ではちょっと考えられないような態度で、時代を感じさせます。

下山総裁らしき人物が休憩したという末広旅館が「末吉旅館」として作中に登場しますが、これは本物の末広旅館を使ってロケをしており、下山事件関係の文献を見ても古く不鮮明な写真しか見られないことを考えれば貴重です。また当時の五反野の雰囲気も伝わってきます。面白いことに東野村記者役の俳優さん(信欣三氏)が作中で「秋山はあの日、五反野駅近くの末広旅館といううちで休んでるんです」と本当の旅館名を間違って言ってしまっています(映画では国鉄総裁の名前は下山ではなく秋山)。

監督兼主演の山村聰氏については、原作者の井上靖氏も絶賛していますが、原作の少し枯れたイメージの主人公とはやや異なるような気がしました。山村氏の演じる速水記者はタフで強過ぎるきらいがあり、管理人としては小説の主人公のほうが好みでした。最も印象に残る演技をしていたのは、社会部長役の滝沢修氏だったように思います。彼の渋く味のある演技だけでも見る価値のある映画でした。ストーリーも演技もシリアスなはずなのに、なぜかどことなくユーモラスな感じのする柳谷寛氏演じる筧記者の「妙ちくりんな時代がまたやって来てるんだ! 俺たちが手を緩めたら誰がやるんだ!」という台詞も印象に残りました。

山村聰氏から原作者の井上靖氏に映画化の話が初めて来たのは昭和27年だったようですが、そのときには井上氏は下山事件に対する世人の見方が混沌としていて誤解を生む可能性があったので躊躇したということです。しかし再度山村氏が映画化の提案をしてきた昭和29年初旬には、井上氏は快諾しています。それは「時代は僅かの間に、すっかり変っていた。もはやいかなる方面からも利用される心配もなく、誤解を招くおそれもなかった。下山事件そのものが、全く過去のものとなり、それに対する世人の考え方も、従って冷静になっていた」からだといいます。なお、このエントリ中の井上靖氏のコメントや意見は『養之如春 井上靖エッセイ全集 第三巻』(学習研究社)所収の「事実の報道が触れ得ぬ面を」と「暗い透明感 ―原作者として観た映画「黒い潮」―」というエッセイで読むことができます。

余談ですが、警視庁捜査一課長として実際に下山事件に関わった堀崎繁喜氏がのちに「黒い潮」という言葉を使って以下のような証言をしています。「黯い潮だよ……国民が警察に対して信頼を失ったら一体どうなるか。日本を暗やみにしたくなかった。それが8月3日の合同捜査会議に臨んだ時の捜査一課の態度だった」(『「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年』、p81)。

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